第7位 石の媼(ばあ)さま、爺(じい)さまに願う
先日弘福寺にお参りに行ったら、小学生の男の子が走ってやってきて翁媼尊の祠で手を合わせ、それから本堂のほうへ走ってまた手を合わせると、一目散に門のところで待っていた母親のもとに駆けていきました。この子はおそらく呼吸器官が弱いのでしょう。「口中に病のある者は爺に、咳を病む者は婆に祈願し」回復した折には煎り豆と番茶をお礼として供えると昔から言われているのです。
宮田登はつぎのように説明しています。(『江戸のはやり神』)
咳の願かけの時は、かならず豆やあられなどの煎り物を煎じ茶とともに供えた。霊験あらたかな願掛けの仕方は、はじめに婆さんに咳を治してくださいと頼み、ついで爺さんのところへ行って、婆さんだけではおぼつかないから何分よろしくと祈願するのがよいといわれた。
この石の婆、石の爺は、築地2丁目の稲葉対馬守の屋敷内に祀られている屋敷神のようですが、基本的にはおなじ神です。弘福寺の翁媼尊については、永井荷風が「向島の弘福寺にある石の婆様には子供の百日咳を祈って煎り豆を供える」と『日和下駄』のなかで触れています。
当地の説明書きによると、寛永年間の人である風外禅師が相州真鶴(神奈川県真鶴町)の洞窟で修行をしているとき、父母に孝養することができないため、そのかわりに岩を刻んで父母の姿を作り、洞内に安置し、日夜孝養を怠らなかったというのです。
弘福寺は禅宗の一派である黄檗宗に属する寺です。内田魯庵によると、「牛嶋の弘福寺といえば鉄牛禅師の開基であって、白金の瑞聖寺とならんで江戸に二つしかない黄檗風の仏殿として江戸時代から著名であった」といいます。
しかし父母を孝養するという考え方は「父母恩寵経」のような儒教的な色合いが強く(中国で編纂された偽経と考えられています)民間伝承を仏教風にアレンジしたものといえるでしょう。むしろ宮田登が考えるように、もとは道端にあった男女二神の道祖神なのではないでしょうか。
禅師が彫ったものにせよ、道祖神にせよ、この翁媼尊はかなりインパクトがあります。インパクトは強いのに、写真を撮ると、彼らは背景に沈み込み、姿が見えづらくなってしまいます。神様なのに、もののけのように思えてしまうのです。でもじっくり見ていると、ふたたび姿を現し、やさしく微笑んでいるのです。不思議な神様です。
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