ケサル王物語がチョギャム・トゥルンパに与えた影響 

ロビン・コーンマン 宮本神酒男訳 

 

 チョギャム・トゥルンパ・リンポチェは、19世紀末から20世紀にかけて花開いたチベット仏教の運動、リメ(ris med)、すなわち超宗派運動の流れを汲む重要な人物だった。この運動のリーダーたちは、学者であろうと瞑想のマスターであろうと、さまざまな異なる系譜やチベット仏教の宗派から集まっていた。そのうちのひとつは土着のボン教であった。つまり仏教でさえなかった。

[訳注]カム出身の転生ラマ、チョギャム・トゥルンパ・リンポチェ(19391987)については別の機会に詳しく述べたいが、彼がcrazy siddha (drubnyon)、すなわち瘋狂僧成就者の系譜に属することは強調しておきたい。ニュンパ(瘋狂僧)といえば、15世紀のツァンニュン・ヘールカやドゥクパ・クンレーといった、一見乞食か狂人のように見えるが、じつは天才的な仏教哲学者ないしは詩人、僧であるという特殊な人物のことである。トゥルンパ・リンポチェも、女性問題をたびたび起こし、アル中で、いろいろと問題の多いグルだった。しかし厖大な知識を擁し、すぐれた詩人で、天才的、かつ人を動かす力とオーラがあり、人柄がよく、だれからも愛された。欧米にチベット仏教を広めた最大の功労者。好奇心旺盛で、日本の書道や武術にも興味を持っていた。邦訳は『タントラへの道』『シャンバラ』など数冊あり。

 彼らは異なる系譜の教えや実践を混ぜ合わせて、統合されたものを作った。この新しい宗教は、信仰する者に、他の宗派であろうとそれがベストであれば遠慮なく学ぶことを勧めたのである。

 自身11代目のトゥルンパ・リンポチェの転生として、この運動のスポークスマンを務めてきた。また中国と接する東北チベットの僧院的かつアカデミックな社会においてそのプログラムを推し進めてきた。

 あとでもう一度詳しく述べたいが、超宗派運動はたんなる哲学の統合運動ではない。それらには社会政治的なビジョン、言い換えれば神秘的な宗教と世俗的な宗教が合一されるビジョンなのである。

 われわれは非政治的なテクストにこの運動を見出すだろう。プラトンやアリストテレスの時代以来、われわれには政治研究の伝統があるが、そもそも内陸アジアには、そのようなものがなかったのである。遊牧系の牧民があらかじめ分布していた不毛な、人口過疎な地域には、よく知られているように、警察や都市のような類のものはなかった。

政府を生み出すような地理学的な実体はなかった。古代ギリシアに都市国家や帝国があった一方で、東北チベットには遊牧民の集団や交易の拠点があった。東には中国の帝国があり、シルクロード沿いにはモンゴル人の国のような遊牧民連合が形成された。

 チベットの口承文芸であるリンのケサル王の英雄叙事詩は、その長大で具体的な描写によって、理想的な遊牧国家の姿を提示することができた。その国家を統治したのは、チベット人の間でムクポ氏族として知られる部族である。彼らの遊牧民連合は次第に大きくなり、ついには帝国といえるほどの規模になった。

超宗派運動は、口承の、あるいは筆記された材料からなる厖大な資料を使って、連合遊牧民国家の性質や役目に関する考え方を形成してきた。トゥルンパ・リンポチェは西欧に布教をしていくなかで、しばしばこの体制を「目覚めた社会」と呼んだ。それを支えるのは、宗教、国家、社会をうまくまとめる理論だった。

 

目覚めた社会 

 チョギャム・トゥルンパ・リンポチェは仏教の教師であるだけでなく、文化リーダーでもあった。彼は、仏教文化が西欧の仏教徒の第一世代、あるいは将来の世代にいかに受け入れられるかに苦心してきた。また、仏教文化が西欧の世俗社会に影響をもたらしうると考え、独自の仏教哲学を示した。

 こうした考えにしたがい、コロラド州ボルダ―に彼が建てた大学、ナーローパ・インスティテュートの博物館で、展示会や詩の朗読、パフォーマンスが披露された。彼は学生らに「目覚めた社会」という題目で、よりシステム化された社会における仏教文化の役割について講義した。

 目覚めた社会という考えによれば、仏教徒の道は単純に苦痛から逃れるためのものではなく、ブッダのビジョンや価値(この言葉を使うとすればだが)が反映された道ということである。

 いまだに目覚めていないわれわれは、サムサーラ(輪廻)、すなわち幻影の世界に生きている。サムサーラとは、川のひとつの岸、すなわち「此岸(しがん)」という意味である。もうひとつの岸、すなわち「彼岸」から、洪水の川を渡るよう手招きするのは、悟りを開いた人々、三世と十方のブッダたちである。そこはサムサーラ、時間、空間を超越した人々の宇宙なのだ。われわれはどうしたらいいかわからず、混乱して岸に立っている。われわれは左右を見て、サムサーラのなかにいる仲間とわれわれ自身が作った混乱した世界を見つける。マルクス・アウレリウスが言うように、われわれはつねに現象や自身の精神的生活について間違った判断を下しているのだ。

 川を渡ると、ブッダの小さな像が遠くから呼んでいるのがわかる。舟に乗り込み、ブッダに向ってこぎはじめる。サムサーラにおける仲間たちは次第に小さくなっていくが、仲間の旅行者はそのままである。そしてブッダは幻影のなかで次第に大きくなり、われわれは対岸に近づく。舟が揺れるので、われわれは漕ぎつづけなければならない。努力の甲斐あってわれわれは最終的に自分たちが目覚めた社会のなかにいることを知る。彼らは「いつまでも至福のなかにある人々」である。一方、サムサーラの人々は「いつまでも苦悩から抜け出せない」人々である。

 悟りの対岸をめざし、われわれは舟に乗って苦悩の川を渡る。対岸の生活こそが目覚めた社会である。この目覚めた社会の感覚を発展させると、そこにすべての観点であることがわかる。とはいえ、われわれはブッダの観点から物事を見ることはできない。なぜならわれわれはなお混乱した存在だからだ。われわれは自分たちの人生をもはや「此岸」、すなわちサムサーラの観点から見ることはないだろう。われわれが発展させ、実践しようとする徳は、ブッダの彼岸が基礎となっているのだ。

 トゥルンパ・リンポチェの目覚めた社会のビジョンには、いくつかの構成要素がある。伝統的な仏教倫理に道徳律の基礎がある。たとえば、社会で行動を規制するという第一原理は、小乗仏教の訓戒、「第一、人を傷つけるな」である。これは初心者や途上にある学生が、与えられた環境のもとでは、何が正しいことか理解できないかもしれないが、少なくとも人を傷つけることはしない、という確認をするという意味である。

 劇作家ユージン・オニールは戯曲『奇妙な幕間』のなかで、「幸せかどうかが気になるのは、われわれがみな泥棒だからだ」と述べている。

 「人を傷つけるな」という言葉は自己中心主義に陥るのを防ぐ効果はあるだろう。皮肉なことに、それは西欧の唯物論者が「目覚めた私欲(enlightened self-interest 他者や属する集団のために自分を犠牲にする欲求)」と偶然にもよく似ている。

 目覚めた社会の中心となる概念は、6つの完全、あるいは「彼岸へ行くための徳」(パーラミター、六波羅蜜)と呼ばれる大乗仏教の道徳律である。これらはボーディサットヴァ(菩薩)と呼ばれる名士によって実践される。

トゥルンパはサンスクリット語のサットヴァ(チベット語でセムパ sems dpa’)の訳を「心の戦士」とした。パを戦士あるいは騎士と解釈したのである。菩薩の道の中心となる徳は、戦士が示さなければならない勇気である。

 トゥルンパ・リンポチェの6つのパーラミター(六波羅蜜)の厳格な定義はチャンドラキールティ(月称 7世紀)の「マディヤマカーヴァターラ」を基としていた。彼の米国での初期の「10のブーミ(十地」と銘打ったセミナーは、チャンドラキールティの論文を基礎としていた。

 しかし1980年代の初めにトゥルンパ・リンポチェは、カーラチャクラ・タントラ(時輪タントラ)とリンのケサル王物語から引用した異なる隠喩とシニフィアン(能記)のシステムを使って、道徳律を修正したのである。叙事詩(ケサル王物語)は内陸アジアにもとからあった教えと中国の思想と文学の影響から生まれた作品である。

 チベットの叙事詩はその現代的な形式は、元代の折衷主義の大きな影響がうかがえる。それはモンゴルの多元文化主義と哲学の言葉、儒教国家の官僚的土台とを結合させたのである。この影響は「パトロンとグル(国師)」すなわちチベットの高僧と元の皇帝との間の関係から生まれたものだった。

 これらのことは、チベットの口承文芸であるケサル王物語のパフォーマンスと外観に、如実に現れている。このなかで戦士たちは、中国の小説、とくに三国演義(羅貫中作)の英雄のように甲冑をまとい、派手な装いで身を固めた。康熙帝が、彼自身が出版したモンゴル語訳版のケサル王物語を、三国演義と関連付けていたのは明らかである。

 清朝もまた内陸アジアの遊牧連合の後裔だった。そして叙事詩の折衷主義は現代にいたるまで国家の支持を得ていた。

 1950年代、共産主義者がチベットの叙事詩の研究に影響力を及ぼし始めた頃、彼らはそれが中国のチベット人や内陸アジアの少数民族にとって価値のある民俗であることを認識した。このように彼らは多元文化主義を追い求めたのである。それは叙事詩のなかに文学、政治、宗教の融合をもたらした。

 このようにトゥルンパ・リンポチェが、目覚めた社会についてのレクチャーをするとき、ケサル王物語の言葉を使って、政治的、文化的哲学を説明した。そのとき彼は古代後期の漢蔵(中国・チベット)の思考様式の伝統に従っていたのである。

 それゆえ彼は、政治の理論において、自然の階層(ヒエラルキー)、天の権威、そして「天・地・人」という儒教的理想を採用したのである。言葉そのものを使わず、彼は儒教的な用語である仁(humanity)に相当する仏教理論を提示した。

 トゥルンパがビジョンとして思い描いたように、目覚めた社会において、リーダーシップは天の権限を持つ哲学王によって発揮される。それは王が知恵ある者であるがゆえである。これらの王は哲学的な理想と実践的な政治を、天と地を合一して人の原理をまっとうすることによって、ひとつにすることができる。王は理想としての天と現実としての地を合わせる、原理の人である。この論理にしたがって、目覚めた社会のひとりひとりは、天と地を合わせるのとおなじ考え方によって、政治的リーダーシップを磨いたり、文化的リーダーシップを育んだりするのだ。

 目覚めた社会が頼りにする神々は天と地、人にしたがって組織される。ラ(lha)と呼ばれる天の神々、天と地をつなぐニェンと呼ばれる山々や自然の造形の神々、そしてル(サンスクリット語でナーガ)と呼ばれる水の神々にしたがって彼らは命令を受ける。それらは地の原理である。ラ、ニェン、ルは、天、地、人、その他さまざまな仏教の形而上学的な3つ組に相応する。

 目覚めた社会の儀礼には、お香の煙を捧げるラサン(lhasang)も含まれる。この儀礼で煙の柱は、地上の祭壇を天空の聖なる世界と結びつける。技術や芸術、職人による工芸品でさえこの原理によって分析される。トゥルンパはこのように彼の政治哲学に古典的な儒教を取り入れた。そして彼の理論に儀礼システム、占星術理論、古代中国哲学の錬金術的科学を導入した。

 これはまたチベットの薬学にも適合した。それには厖大な中国薬、土着のチベットの宗教、そしてこのあと見ていくように、ケサル王物語の宇宙論も含まれた。物語には目覚めた社会の精巧な像が見つかった。それはまたカーラチャクラの暦の文化にも適合した。それには中国の要素が含まれていた。

 

 北東チベットは都市や政治的中心地がある地域ではないが、巨大な農業帝国との境界に位置する高山に広がる牧民の経済区域だった。トゥルンパがおそらく知っているケサル王物語は、アムドのゴロク地方(青海省)を目覚めた社会のモデルとして発展した地域として描いている。実際のところ、叙事詩は、連続して起こる戦争のなかで、目覚めた社会の基礎を描いた理想的な叙述である。

 多くの叙事詩は、もちろん似たような役目を持っている。どれも戦争時における理想的な社会や戦争によって生み出されたものについて描いている。

 18世紀の西欧の文学理論も同様の考え方で『イーリアス』を見ていて、ヴォルテールは、たとえばアガメムノンを理想的な王と主張した。ウェルギリウスの『アエネイス』も同時代の批評からこれとおなじように見られていた。このふたつの叙事詩には、人々の政治的アイデンティティを理想化するというテーマが流れていた。

 政治的な理想を提示するのは、素朴な聴衆に自己認識のための材料を与える叙事詩の方法のひとつだった。われわれは、われわれの叙事詩を読むことによって、自分たちがだれであるかを学ぶことができる。このあと述べるように、ケサルの叙事詩は、宗教的、政治的アイデンティティを建てるための基盤として、その故郷の地域で利用されるのだ。

 超宗派運動(リメ)版ケサル王物語はこのように、トゥルンパにとって政治的モデルとして活用することができた。彼はこの超宗派によるケサル王物語の理論化を使って、大衆的な宗教として、神秘的な宗教を広めたのである。それは中国のチベット侵攻が始まったときにちょうど東チベットで生まれた文化プログラムを、西欧においてふたたび創り出そうという試みである。

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