ケサルとシャンバラの教え 

 トゥルンパ・リンポチェが西欧で、それは英国だったが、最初に行った講義のテーマは、チベットの土俗的な文化象徴ではなかった。聴衆が興味を持っていたのは、主にニンマ派のもっとも高度で難解な修行法だったからだ。

 米国に来たとき、彼はカリキュラムを変え、カギュ派の教えとカギュ派の法統を継ぐ高僧の生涯の物語に焦点を当てた。すなわちティローパ、ナーローパ、マルパ、ミラレパ、ガムポパらの伝記である。

 1978年、トゥルンパは講義のテーマをケサル王物語の教えと宇宙論に戻した。それは毎週末に行われる「シャンバラ・トレーニング」と呼ばれる一般向けプラグラムの基礎となった。トゥルンパはミパムのケサル賛歌の25パーセントほどを翻訳し、西欧人の生徒のためにラサン、すなわち「お香の煙の浄化」儀礼の実践を導入した。

 それから数年にわたって彼は中心となる神々として、シワ・ウーカル(静寂白光神)、その眷属であるダラ戦神、リンのケサル王、その物語の登場人物たち、そして神秘的なシャンバラ王国の国王たちが登場する啓示的なテクストをつぎつぎと発見し、書き留めた。

 このシリーズの最初のテクストは、「偉大なる東の黄金の太陽」というタイトルの著作だった。それは神々のマンダラを提示し、タントラ経典として読まれた。彼らは儀礼と瞑想を実践した。また瞑想の実践のなかで観想(ヴィジュアライゼーション)を行った。

 「黄金の太陽」の中心的な神々は、すべての仏教の秘教的なテクストのなかでもっとも複雑な体系を持つ『カーラチャクラ・タントラ』(時輪経)から引用したものである。彼らはリグデンと呼ばれる高貴な一族の血統を持つ者たちであり、シャンバラ国の目覚めた国王たちだった。

 「黄金の太陽」のこれらの国王たちの眷属神は、しかし、カーラチャクラのマンダラの数百の神々からではなく、ケサル王物語の英雄や戦争神から採られたものだった。のちのテクストには、『ラの叙事詩』の神々が、啓示されたシャンバラの神々の体系に付け加えられた。つづく何年もの間、トゥルンパ・リンポチェの豊かな心から多くの文学が生まれたが、登場人物に変わりはなかった。

 シャンバラ経典大成は、あきらかにひとつのタントラ経典から成っていた。これらのテクストへのトゥルンパ・リンポチェの口述の論考からは、新しい経典が比較的短いものであったとはいえ、適宜で、鋭く、シャンバラの教えや実践が細かく体系化されていることがわかった。

 シャンバラ経典は奇妙な読まれ方をした。インドのタントラ経典を翻訳した経典と違って、それらは叙事詩的な雰囲気をベースに、土着の戦士儀礼の、やかましくて自慢たっぷりの英雄話のトーンを混ぜた、独特の詩的言い回しで書かれていた。

 概していえば、彼らの声はアジアの遊牧民特有の気取り屋風だった。独立していて、機知に富んでいるという誇りが表れていて、山賊や暴力にも負けない勇猛ぶりを見せ、自分たちの雄弁と大ボラをこよなく愛しているように見えた。

 トゥルンパ・リンポチェのシャンバラの講義では、この戦時の粗野な雰囲気と、ふだんの慣れた、瞑想をするときの静かな空気とをうまくマッチさせていた。つまり、神秘的な実践者は戦時における戦士のようであり、神秘的な宗教の道は戦士の道なのである。

 このメッセージは1970年代、アメリカの弟子たちからは歓迎されなかった。若者の心、とくにアジアの宗教を信仰していた者の心に、ベトナム戦争に対する平和運動の気運が盛り上がっていたのだ。

 このことは、そもそも大乗仏教の文章が武術のイメージで語られていることを無視している。たとえば、ボーディサットヴァという言葉はチベット語で「覚醒の戦士」を意味している。タントラ仏教のマンダラの神々はダーカ、ダーキニーと呼ばれているが、それらは男女の戦士である。

 しかし何世紀にもわたって用いられてきた結果、これらのインドの言葉から武術的な意味は消えてしまったのだ。

 戦士という言葉は、シャンバラの教えのなかでは新しい息吹を持った。それは中央アジアの遊牧民の騎馬ゲリラを喚起し、インドの叙事詩の貴族の騎士が、ギリシアの貴族の騎士ように、馬車に乗って戦い、編隊を作って敵を追い込むのとはかなり様子が違っていたのだ。

 シャンバラ経典は、遊牧民騎馬戦士が四方の悪魔の敵、すなわち4種のモラルの偽善者と戦う、戦場としてのスピリチュアルな道を示すものである。

 この道の途中にある思わぬ落とし穴は、ケサルの軍隊が物語の中で出会う脅威である。傲慢の毒、疑惑の罠、希望の待ち伏せ、不確かの矢などと出会うのだ。

これらの障害は、モラル上の失敗、精神上の過ち、正道から脱線する動きなどのリストに組み込まれる。このリストは仏教学者の手引書から引用されうるものだが、ここでは叙事詩(ケサル王物語)の言葉の衣を着るのである。

 たとえば、仏教経典が、実践者は心の中で「家なき者」(パーリ語でアナーガーリカ)でなければならないと言うとき、シャンバラ経典は、彼あるいは彼女が「テント文化」の命に従うことをすすめる。北東チベットの遊牧民的牧畜生活は、現代の西欧の弟子たちにとって、スピリチュアルな行動の隠喩となるのである。

 チベットのタントラ仏教の系譜の最初期、弟子たちはグルと起居をともにした。そしてグルの家族が守護神(イダム)のマンダラであるかのようにみなす伝統があった。

 たとえばカギュ派の祖である翻訳官マルパの庭園は、憤怒仏であるヘーヴァジュラのマンダラにたとえられた。マルパはヘーヴァジュラ自身、妻はヘーヴァジュラの明妃のナイラトミャと考えられた。マルパの息子と主要な弟子は、4つの門の眷属神であるとみなされた。

 マルパとともに学ぶために、あなたはマルパの家族に参加し、ヘーヴァジュラの神々のメンバーのひとりとしてポジションを取る。この実践法は、僧院内での修練を重んじるようになったカギュ派においてはすたれてしまった。しかしニンマ派の伝統のなかでは続けられている。

 トゥルンパ・リンポチェはこの実践法を弟子たちとともに続けた。ただし仏教マンダラのかわりに彼はシャンバラの教えの「ケサル+カーラチャクラ」のハイブリッド・マンダラを用いた。

 彼は自宅をシャンバラ王国の都にちなんでカラパ宮廷と呼んだ。彼は謙遜をするという習慣と仏教のラマたちによって洗練された貧しい見かけを捨てた。彼は王室の式典と敬称を作り上げた。彼は自分自身をシャンバラ・マンダラの中央の神であるシャンバラ国王リグデンになぞらえた。そしてもっとも近い弟子たちに、自分のことをサキョン、すなわち王と呼ばせた。彼の妻は王妃だった。そのほかシャンバラのマンダラが啓示するのは、叙事詩(ケサル王物語)やミパムのケサル賛歌のように、大臣たち、将軍たち、王妃たち、待つ宮廷の貴婦人たち、そして甲冑をつけたたくさんの戦士たちだった。

 宮廷の弟子たちはこれらの役割を与えられたが、実際、混乱をきたしていた。というのも彼らは、真のテクストであるアジアの口承文芸、叙事詩に接したことがなかったからである。

 仏教の中心となるシニフィアン(能記)のひとつは、高貴な家族(サンスクリット語でクラ)という概念である。ブッダははじめこの比喩を、インドのカースト・システムを批判するために用いた。すべての生きるものは仏性を持っているので、生まれがどうであろうと、等しく仏性を得ることができるのである。仏教徒としての戒を受けることによって、人は高貴な家族の息子や娘になれるのだ。人はブッダのカーストになるために、すべてのカーストを超越することができるのである。

 ケサル王物語の筋のなかで、家族という言葉は違った意味を帯びている。そのかわりに部族や氏族(チベット語でドン)が用いられるのだ。ケサル自身はチベットの太古の氏族、ムクポ氏族に属している。

トゥルンパ・リンポチェもムクポ氏族の一員であり、それゆえ不思議なことにケサルの子孫といえるのである。シャンバラの教えを受け、シャンバラ経典を読むことを許された弟子たちは、結果としてムクポ氏族の一員となった。

 こうして遊牧民の伝統を完全に保つことができるのである。というのも遊牧民連合の政治的世界においては、部族という言葉は極端に伸縮自在なのだ。政治的な関係は親族の用語で代表されることが多い。たとえば同盟関係が結ばれたり、忠誠を誓い合う関係になったりすると、いとこ・兄弟、姉妹・いとこ、叔父・父などと呼び合うのである。

 ケサル王物語においても、中国の皇帝が東方の部族から「叔父」と呼ばれているのは好例だろう。婚姻関係によって結ばれた人々やほかの忠誠を誓った関係にある人々は、実際はそうでなくても、親類と呼ばれるのである。養子を結ぶことも多く、親類関係はいっそう広がりを見せている。

 部族間のつながりを表わすゆるやかな名称は、弟子たちとマンダラの神々との関係性にも影響を与えた。タントラ仏教において、弟子はアビシェーカ(塗油)と呼ばれる灌頂儀礼によって、形而上学的な原理を、ひとつの神として、ヴィジュアライズ(観想)する権利を得るのだ。

 灌頂の力は、キリスト教の使徒の継承のように、あるいはイスラム教のバラカ(祝福)の相続のように、グルから弟子へと受け渡される。しかしシャンバラの神々を受け入れたのは(その図像はチベットの土着の神々が基礎となっている)仏教徒の家族ではなく、ムクポ家族だった。結果的にグルの血の家族のラーレスとペナテス(ローマ神話の家庭の守護神)となった。

 このようにチョギャム・トゥルンパがシャンバラの教えを広めるとき、内陸アジアの遊牧民世界のたとえは細かいところまで主張された。修行するボーディサットヴァは口承の叙事詩文学のなかではシャーマン的戦士となった。グルの家族マンダラはシャンバラ王の宮廷となった。抽象的で観念的なインドのタントラの神話学の神々は、内陸アジアの地上の自然神になった。精神的な旅の比喩としての僧の放浪する生活は、牧畜家の歩き回るテント文化となった。そして意義深いことに、弟子たちはムクポ氏族の養子になったと考えられた。

 最後に、そして意義深いことに、体内の力のパターンはヨーギのシニフィアン(能記)のインド・パターンから、漢蔵走廊地帯のシャーマン的なシンボルへと移動する。ここでは道教の神々とチベットの土着の神々とが混交されるのである。

 それはどういうことかといえば、ふつうのタントラの実践者は身体のナーディ(脈管)を流れるプラーナ(風)について語るが、シャンバラの実践者は、戦士の身体からまばゆく光るエネルギーのオーラについて語るのだ。

 ケサル王物語のなかで、戦士たちの身体に賦与されるのは見えない神々である。この神々は頭、両肩、胴体のなかに見えない守護神として住まうのである。戦いのなかでこれら叙事詩の戦士に勝つためには、暗殺に対しても身を護っている土着の神々を退けなければならない。

 同様に、シャンバラには信仰のかわりに自信がある。自信の対極にあるのは恐怖である。それは信仰のかわりに入ってくるものであり、最初に解決すべきものである。このように、このようにトゥルンパ・リンポチェのシャンバラの道は、恐怖に打ち勝つことであり、それはもっとも偉大な精神的な達成なのである。

 恐怖から脱したある弟子は、戦いのために着飾った陽気な騎士兵のように、優雅な、完璧な外観を醸し出していた。この恐怖とは、自身の仏性のなかの宗教信仰を意味している。それは戦いにおける騎手の高貴なる憤怒にたとえられるだろう。

 叙事詩の英雄が疑惑を滅ぼし、恐怖を征服したとき、戦神は彼の身体に降臨し、光で満たすだろう。風馬(ルンタ)として知られる勇猛さの聖なるエネルギーは身体のなかで湧き上がり、聖なる力の場は戦士を包み込むだろう。

 この戦闘のカリスマの精神的テクニックは、ミパム版ケサル王物語のなかで発展したものである。トゥルンパ・リンポチェの論考はこのシャーマン的な提示に、形而上学的な、熟考的な説明を与え、叙事詩に描かれる戦士たちの模範的なふるまいを、生徒たちのスピリチュアルな道の実践修行に変えるのである。

 このシステムはすでに超宗派運動(リメ)のエンサイクロペディア的な著作のなかに存在しているものである。ジャムゴン・コントゥル、ミパム、ジャムヤン・キェンツェ・ワンポらが書いた儀礼、手引書、灌頂、そして哲学的論考の数々のなかに、精神文化や形而上学のシステムは細かく描かれているのだ。このシステムは土着のシャーマン的宗教をインドの高度な哲学を、インドのタントラの図像言語を漢蔵の精神主義(スピリチュアリティ)と結びつけるのである。

 それらはここではシンクレティズム的な哲学を帯びることはないが、それらを結晶化し、ひとつの経典全体のなかにひとつの詳細なシステムを作り上げるのは超宗派運動(リメ)なのである。

 

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