理想の蓮花と実際の蓮花   宮本神酒男 
 3年前、ベトナムのフエやホイアンで蓮の花を探し歩いた。ほとんどつぼみばかりで、形のよい満開の蓮の花をなかなか見つけることができなかった。じつはそれは当然のことだった。蓮の花が早朝に咲くという単純な事実を私は知らなかったのである。
 この夏の終わり、私は早起きして自転車に乗り、家の近くの上野の不忍池に行って満開の蓮の花を撮ることに成功した。一応成功したのだけれど、季節が遅すぎたせいか、完璧な花をとらえることはできなかった。
 奇妙なことに、植物図鑑の表紙を飾るような花を求めていたのに、眺めるうちにその毒々しさ、なまめかしさ、たとえは悪いが、年増の商売女のような汚らわしささえ感じるようになり、しかもそれが気に入ったのである。
 ヒンドゥー教や仏教が描く蓮の花は、やはり頭の中に作り出すべきものなのだろう。「
泥から出て染まらず、さざなみに洗われてもすがすがしいという理想的な蓮の姿は、やはり自分の心の中に見出されるものなのである。
 この句の蓮の姿は、儒学者が描いた仏教の理想的な蓮である。仏教の(とくに中国仏教の)蓮は儒学の影響を受けているのか、清廉か汚濁かにこだわりすぎているように思われる。いっぽう、ヒンドゥー教の蓮は生命力の象徴である。ヒンドゥー教の修行者は頭の中に蓮の茎を思い描き、そのなかを流れる樹液(生命力)を感じ取るのである。生命力が高まることによって咲いた蓮の花は、より清浄で美しいのだ。

⇒ 本文(『蓮華讃』)