夢について考えてみた

 夢に関する書をひもとくと(たとえばデイヴィッド・フォンタナ)自分が死ぬ夢は、避けられない運命と向き合わなければならないことを暗示しているという。そのとき自分は古い殻を捨て、あたらしい殻を身にまとう。

フォンタナはまた、自分の死の夢は実際の自分が死ぬこととは関係がないとつけくわえる。良識的な見解である。しかし論理ではわかっても、死の予兆というのは夢の中にも現れるのではないかとどうしても私には思えてならない。

 

 私がこれまで調べたもののなかに、モソ族(四川と雲南の省境に住む女系社会で知られる民族)の「夢の書」(ジム・クァ)というのがある。それはダパ(モソ族の祭司)が人の臨終の際によむいわば「死者の書」なのだけれど、死者の魂を導くチベットの「死者の書」と違い、それは死に行く人の死の予兆の夢なのである。

 冒頭はつぎのように描かれる。

<天空は無辺で揺るぎないのに、夢の中では青空が落ちてくる。大地は広く堅固なのに、夢の中では足元がぽっかり割れる。人の体はしっかりとしているのに、夢の中では風に揺れる>

 死の予兆はかならず夢の中に現れるという考え方がモソ族にはある。つまり夢の中に死の予兆(落ちてくる青空、割れる大地、風に揺れる体など)が現れたら、その人は死にきわめて近いところにあるのだ。「あなたの見た不安に満ちた夢は、死が近いことをあらわしています。死ぬことを恐れず、泰然として受け入れなさい」とダパは死に行く人に語りかけるのだ。

 

 私の見た夢は「自分が死ぬ夢」であるとともに「落下の夢」でもある。多くの人がそうであるように、私の夢の多くは「飛ぶ夢」と「落下の夢」だ。「登る夢」が成功を表わすのにたいし、「落下の夢」は失敗を示す。それは願望が達せられないのではないかという不安の心理があらわれているのだ。モンタナによれば、多くの場合、落ちた瞬間に目覚めるか、地面が柔らかかったりするのだという。地面に強く叩きつけられて(夢の中で)死を体験するということはほとんどない。

 

 私の夢の場合、フロイトやユングを出すまでもなく、これまでたびたび危険な道を(通常はバスで)通ってきた体験の反映にすぎないのかもしれない。とくに2000年代に何度も行ったインド北西部キナウル地方の道路は、冷や汗をどっぷりとかかすような危ない箇所がたくさんあった。実際一ヶ月に一台くらいの割合で車が川底に落ちているという。私も川に落ちている車をバスから何台も見ている。崖に面した狭い道で自分が乗ったバスと大型車(トラックやバス)がすれ違うときなどは、そのたびに「遺書を書こうか」と思うのである。

 パキスタン北部のチラース近郊のカラコルム・ハイウェイをタクシーに乗って走行中、30メートル崖下のインダス川岸に落ちて一時間もたっていない破損したトラックを見たことがある。それほど狭い道路ではないので、ドライバーは居眠り運転をしたのかもしれない。つぶれた運転席にドライバーは倒れているのだろうが、姿は見えなかった。満載した新鮮なポテトが無傷でせつなかった。あのポテトは人々の食卓に届いたのだろうかと、いまもって気になってしまう。(2008年)

 ネパールでは前を走っていたバスが緩やかな斜面を転げ落ち、西洋人を含む多数の死傷者が出た。死亡した地元の若い女性(タマン族のように見えた)を担架にのせ、道路まで運ぶのを私は手伝った。顔面が車体に押されて変形しているのが悲しかった。女性の息子らしき5歳くらいの男の子は状況が把握できず、呆然として担架のあとをついてきた。そのことがあってから数年間、たびたび女性が私の夢の中に現れ、残した息子のことを助けてやってほしいと訴えた。何もしてやることのできないでいる私はいまも罪悪感に苛まれている。(2002年)

⇒ つづき(ロバート・モスに学ぶ)