ヒマラヤを越えた文字喪失伝承     宮本神酒男 

「どうしてわれわれは文字を持っていないのか」
コンプレックス型伝説を追ってネパールから雲南・四川へ 


 1997年11月から12月にかけて私はネパール中央北部の山岳地帯に入り、ガネーシュ・ヒマール(7422m)山麓の村で、タマン族のボンボ(シャーマン。ネパール語でジャーンクリ)に会った。タマン族は、シェルパ族やグルン族よりも古い時代にチベットからやってきた(ボンボ自身が言うには2千年前)とされるが、じつのところはっきりしたことはわかっていない。

三日間滞在したグルン族の村で若者が病気になり、隣のタマン族の村から42歳のボンボが治療をおこなうために呼ばれた。家の入口に祭壇が設けられ(盆の上に布切れを固めた円柱状の聖体、シャカムニの絵、石、タマゴ、馬頭の木彫り、花などが所狭しと並べられる)鳥の羽根や鏡で飾られた頭飾をかぶり、鈴がじゃらじゃらと垂れるマントを羽織った、おどろおどろしいいでたちのボンボが、太鼓を打ち鳴らしながら、歌い、舞い、トランス状態に入っていく。儀式は明け方までつづくのだけれど、その詳しい報告は別の機会に譲るとして、ここではボンボの語ったひとつの伝承について述べたい。

 私は彼の語る文字喪失伝承を聞いて、不意を突かれる思いをした。中国西南部にとくに分布する文字喪失伝承、中国風にいえば「為什麼没有文字」型故事がヒマラヤで語られるとは、想像すらしていなかったからだ。

*この2年後、ランタン・ヒマール(7245m)山麓のタマン族の村々でもボンボから同種の話を聞いた。

[ネパール・タマン族] 
 昔、4人の兄弟がいた。のち長男はラマ、二男はボンボ、三男は領主、四男は村人(農民)になる。あるとき4人は森の中に入った。3人は森から出てきたが、二男が行方不明になった。そこで長男が森に入って捜したが、手掛かりがつかめない。9日目にして岩の下のほうから声が聞こえた。それでもなお、姿は見えず、どこにいるのかわからない。もう二度声が聞こえて、ようやく洞窟の中にいる二男が発見された。(わかりにくいがシャーマン的な力を得るために洞窟にこもって修行をしていたように思われる)
 さて、長男と次男だけが親から本をもらった。長男は一生懸命勉強をしたので、ラマになった。二男は本を囲炉裏に投げ込んで燃やし、その灰を食べ、ボンボになった。だからボンボは文字を持たないが、ボンボの呪文や歌は霊力をもち、いっぽうのラマは経典こそあるものの、棒読みするにすぎず、力はないのである。

 知識と霊的パワーの両立がむつかしいことは、われわれは経験的によく知っている。霊能者になりたいと思って、あるいはたんに占いや霊感を向上させたいと思って関連書を読み漁ったところで、かえって阻害されるだけのことである。天才と秀才に置き換えてもいいだろう。ガリ勉君は猛勉強することによって成績を上げることはできるかもしれないが、ひらめきや芸術的な才能はますます遠のいてしまうものだ。

 この伝説の場合、長男はチベット仏教の僧侶となった。チベット文化圏の周縁にあるタマン族社会において、知識人である僧侶のステータスは相当に高い。一方のボンボはほとんどが文盲であり、社会的ステータスは高くはないが、病人の治療(とくに精神疾患)にあたるのはボンボであり、村人からは村長以上の尊敬を集めているのだ。また三男の領主というのは、地位と財という現世的な成功を収めた人の象徴であり、四男の農民は地位も金もないが、平穏な人生を送る凡庸な人の象徴だろう。

 長男のラマが文字を持つのに二男のボンボは文字を持たない。一見すると長男が圧倒的にすぐれているようだが、二男は「おれたちは文字なんていらないさ」とうそぶいて文字を囲炉裏に捨てる。なかなかかっこうはいいのだが、文字を読めないこと、あるいは文字を持たないことの言い訳のようにも聞こえるのだ。

 これは一種のネガティブ型伝説と呼べるだろう。ボンボはまだしも霊的パワーをもつと誇らしげに言うことが許されるが、文字をもたない民族の「言い訳伝説」の場合もあるのだ。日本人はともかくも漢字をもとにして独自の文字を創出することができたが、世界には文字を持たない民族が山ほどあるのだ。宣教師がアルファベットを応用して民族の言語を表すようにしたといった例も少なからずあるが、これも独自とは言い難く、文字コンプレックスを払拭することはできないだろう。

 文字喪失伝説が伝播したものか、各地に同時発生したものか、はっきりしたことはいえない。しかし分布状況からみるに、中国西南に発した伝説がヒマラヤを越えてネパールに達したと考えるほうが妥当だろう。たいへん大雑把ではあるけれど、ネパール・ヒマラヤから逆にたどっていってみよう。


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