息できない! 大地が揺れる! インド・ヒマラヤであわや遭難(1988) 

 あとで考えると、命を落としていても不思議ではなかった。日没後、インド・ラダックの山中の岩の上で意識を失っていた私を、捜索に来たドイツ人医師夫妻が見つけていなかったら、この世に私はいなかった。このような状態にいたるには、なるべくしてなったという必然の道筋があった。

 週刊誌記者という尋常ではなく多忙な仕事のあいまに取った二週間のオフの間に、小チベットと呼ばれるインド北部ラダックのトレッキングコースを、十日間で踏破しようというプラン自体があまりに無謀だった。目的地の目印となったのは地図上に見つけたガンダラ峠(4800m)である。あの仏教が栄えたガンダーラ(私は2007年にようやくタクシラ遺跡を訪ねることができた)を連想させたのだ。もっとも、ガンダーラ(Gandhara)とガンダラ(Gandala)では綴りが違っていたが。ガン(gangs)は雪、ダ(mda’)は渓谷口、ラ(la)は峠の意味だろう。

 東京発のフライトがニューデリー空港に着いたのが未明。空港ホテルで仮眠を取り、朝6時頃の国内線に乗って海抜3500mの州都レーへ。ある国に国際便で入ってすぐ国内便に乗り換えるのは珍しくないが、目的地がこれほどの高地になると、そうそうはないだろう。しかも私は到着した翌日にトレッキングに出発するつもりでいた。当時レーには外国人向けレストランやカフェ、ゲストハウスが少なく、旅行会社も同様だった。たまたま見つけた旅行会社のオフィスに入り、無理を言って、翌日からスタートできるよう手はずを整えてもらった。この計画性のなさ(多くのツーリストはツアーに参加するだろうし、参加しない場合も、宿泊やトレッキングのスケジュールを組むだろう)が文字通り命取りになるところだった。

 高度順応なしにヒマラヤ(いちおうヒマラヤである)をトレッキングするのが危険であることは重々承知していた。ともかく私は翌朝早く、手配してくれたオフィスの前でトレッキングガイドと待ち合わせた。しかし目の前にいるのがガイドかどうか、確信が持てなかった。年齢は30くらい、とても小柄で、髪はボサボサ、衣服も農民のそれと変わらず、しかも10頭のロバを連れていた。英語もほとんどしゃべれない。サンキューのかわりにメルシーと言ったりする。フランス語がしゃべれるわけでもない。ほんとうにロバ引きなのだと思う。山の村々に食糧や物資を届けるのを仕事にしているのだ。本業のついでに私の荷物を運び、道案内もするのだろう。私は事情を理解し(いきなり翌日出発で十日間のトレッキングを誘導する暇なガイドなんていないのだ)バックパックをロバに載せた。問題は、何も考えずに水がたっぷり入って重くなっていた水筒をロバにくくりつけたことだ。のどが渇けば水筒を取って水を飲めばいい、と気軽に考えていた。

 あとで追いつくから先に出発してくれ、とつたない英語と身振り手振りでロバ引きは私に伝えた。ずっとロバといっしょだと思っていたので、気持ちが落ち着かなかったが、ともかく私は出発した。インダス川沿いのゴビ砂漠のような荒れ地を私は黙々と歩いた。2、3時間ほどたつと、ずっと後ろに小さな点が見えた。ロバ引きとロバたちである。ロバは遅い、と思ったら大間違いだ。それは見る見る大きくなり、彼らは私に追いついた。さあ、これからはずっと一緒だ。そう思って、ふと気づくと、ロバの一団は少し先を進んでいた。その距離はじりじりと大きくなっていった。そしてふたたび小さな点になった。今度はずっと前方で。

 私ははじめてロバの一団が私とともに歩んでいくつもりなどないことを理解した。あまり離れてしまってはいけないので、出発を後らせていたのだ。「しまった」という言葉が私の口をついて出てきた。水筒はロバの背中だ。水が飲めない。インダスは大量の水を運んでいるが、泥水である。真冬には川面は宝石のように美しいブルーになり、その上を氷の破片が流れていくのだが、今は大地の土の色をしている。歩いている荒れ野はほとんど砂漠に近く、水分がまったく感じられない。そのうち陽炎が立つようになった。身体からどんどん水分が失われていく。ハアハアいっている犬みたいに舌が出てきた。身体が極度に乾燥すると、舌が出る。人間ってそういうふうにできてたんだっけ? おりしも野犬が一匹近づいてきた。舌を出している。私も舌を出している。お互いに似ているな、と思いながらすれ違った。

 半砂漠のような荒れ野からようやく山岳地帯に入っていった。しばらく山道を進んだあと、「大きな風景」に出た。前方には短い草が生えたなだらかな砂地混じりの緑地が上ったり下ったりしてはるか先の雪をかぶった山脈へとつづいている。右のほうには緩やかな斜面がより高いほうへとつながっている。前か右か、どっちへ行くべきか私は迷ってしまった。おそらく右へ進むべきなのだろうが、確信を持てない。

 そのとき前方、はるか向こうに砂煙が上がっているのが確認できた。砂煙はしだいに大きくなってくる。砂煙のなかに数十匹の羊の姿が現れてきた。その先頭に立つのが遊牧民の女性だ。砂煙を見てから彼女がすぐ近くにやってくるまで、半時間余りがたっていた。女性は180センチくらいの長身で、若く、とても美しかった。だれかが「彼女は人間ではない、女神だよ」と教えてくれたら、「やっぱりそうなのか、ありがとう」と返してしまいそうな気高い雰囲気があった。女神はgoddessではなくチベット語のラモ(lha mo)である。私は女神に向かって大声で「ガンダラ!」と叫び、指で「あっちか、こっちか」と聞いた。彼女は手に持っていた小さな棒で右のほうを指した。

 黄、白、青、ピンク。高山植物の小さな花々が咲き誇る山あいの道を歩くのは楽しかった。水分補給をしていないこともすっかり忘れていた。疲労がたまっていたが、疲れているという意識はなかった。おそらく意識しないほど疲れていたのだろう。何人かの西洋人のトレッカーとすれちがい、「ジュレー」とあいさつを交わしたが、人気トレッキングコースではなかったせいか、数はそれほど多くなかった。陽が沈みかけているのに、目的地(できればガンダラ峠)はまだまだ遠かった。ちょうど公園のベンチほどの岩があったので、そこに腰を下ろした。落ち着いた瞬間に黒い帳(とばり)が天から降りてきた。睡魔に襲われたのである。

 揺り動かされたので、重いまぶたをあけると、見知らぬ西洋人の中年の男女の顔があった。陽はとっぷりと暮れていた。

「わたしたちはドイツ人です」と男がほほえみながら自己紹介をした。どうやら斜面の上のほうにキャンプ地があり、そこにドイツ人のトレッキンググループが宿営しているらしい。この夫婦(男女は夫婦だった)はグループのメンバーであり、医師ということだった。そこにロバとともにやってきていた私のガイド(というよりロバ引き)が「日本人が来ない。途中で倒れているのだろうか」といったことを伝えたようだった。私はウトウトして公園で酔いつぶれた酔っ払いみたいに、朝になったら冷たくなってしまったかもしれない。

 私はゆっくりと、踏みしめるように一歩一歩進みながら、医師夫妻とともに斜面を上がっていった。体中に鉛の毒が回ったみたいに、足取りは重かった。一時間ほどしてようやくキャンプ地に着いた。すぐに私のテントが設営され、その中に横になった。意識は朦朧としていたが、混濁することはなかった。しばらくしてドイツ人医師が様子を見に来てくれた。医師らしく私ののどの奥をのぞき、聴診器で私の胸のぐあいを診た。そして私に言った。

「大きく息を吸ってください」

 私は大きく息を吸った。その瞬間に何かが私の肺をつかみ、激烈な痛みが走った。私は両手で胸をおさえたまま、頭を自分のおなかにうずめ、痛みをこらえた。痛みがひいたので、今度は小さく息を吸って、吐いた。これを数回繰り返すと、しだいに酸素が不足してくる感じで、仕方なく大きく息を吸った。するとまた激烈な痛みが走った。痛みがひいていくと、また小さく息を吸って、吐く。すると酸素が不足して……。地獄の繰り返しである。やばい、これは呼吸困難という状態だ。肺水腫になっていたのだ。重度の高山病である。この世に生まれ出たときから何億回とあたりまえのように呼吸してきたが、シンプルでありながら意外とむつかしいものであることを私ははじめて学んだ。

「高山病です。山を下りるほかないでしょう」多少持ち直した頃に、医師は宣告した。下山するのが唯一の、そして最善の治療法であることはよくわかったけれど、あきらめたくはなかった。もう一日ここにとどまって順応できないか様子をみることにした。私はその後、四半世紀の間に数えきれないほど(合計して何十か月)もヒマラヤやチベットなどの高地に滞在していて、高度に順応していく。5千メートルの峠で一瞬だが走ったことさえある。しかし高地に慣れていないこのときは細胞のひとつひとつが酸素の希薄な状態にうろたえていた。

 翌朝、ドイツ人グループはつぎの宿営地に向かって出発した。ロバ引きとともに残された私はしばらくぼんやりして英気を養った。久しぶりに尿意を催したので、キャンプ地近くの茂みに向かおうとして立ち上がった。しかしまっすぐ歩くことができなかった。荒れた海の中を進む大型客船に乗っているかのようだった。たいらなはずなのに、足元が傾いていく。右に傾いていたはずなのに、歩を進めると、今度は左に傾く。急な斜面は崖のように感じられた。私はへたりこんでしまった。これでは山歩きなんてとうていできない。断念してレーに戻り、つぎに何をするかはそれから考えるとしよう。

 私はロバに乗ってゆっくりと下山した。何度もずり落ちそうになった。「まるでイエス・キリストだ」私はひとりごとを言った。イエスはエルサレムに入城するとき、なぜロバに乗ったのだろうか。こんな乗り心地のわるい動物もないであろうに。でもレーに着く頃にはロバにすっかり愛着を抱くようになっていた。*蛇足を加えておくと、ロバに乗ってエルサレムに入城するシーンは、ゼカリア書(9:9)の預言をふまえたもの。ロバに乗るということは、イエスが王であることを示している。また福音書のなかでマタイ伝だけがロバを二頭(ロバと子ロバ)としているが、バート・D・アーマンによれば、これは旧約聖書の詩的表現を文字通り解釈してしまったためだという。

 レーに着いたあと、ホテルに泊まらず、なぜかカシミール出身の絨毯屋の兄弟の部屋に泊っている。なぜそうなったのかは記憶にない。私はそこで24時間、昏々と眠り続けた。ちなみにラダックを去ったあと、カシミールの州都スリナガルの郊外にあるこの兄弟の立派な実家に泊っている。

さて、長い眠りから覚めた私はトレッキングをあきらめ、王宮やいくつかのチベット寺院を訪れた。その後ラダックへは何度もやってきている。私は心の底からラダックの風景や寺院、風習が好きだ。とくに寺院に関しては、ラサの大僧院よりも、ラダックの円錐形の山を覆うように建てられた寺院や切り立った崖に建てられた寺院のほうが好みである。

 帰りがけ、飛行機ではなく、ヒッチしたトラックに乗ってスリナガルまで下りた。運転席の真上(車内ではなく車外)というスペシャルシートをゲットしたのである。ずっと数百メートルの崖に沿った道を走るので、(とくに車体の上に乗っていると)スリルは満点だった。下を見るとローリーが落ちていたりして、生きた心地がしなかった。

 途中でトラックが止まり、だれかが乗り込んできた。西洋人である。私もヒッチであることにかわりはないが、レー郊外のトラック駐車場で運転手と交渉したので、それほどむつかしいことではない。こんな町でもない幹線道路の途中でヒッチするなんて、たいしたタマだ、と私は思った。よく見ると、白人女性だった。出会いとしては、よくできていた。このドイツ人女性、ガビは私のガールフレンドになるのだから。



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