アテネのお色気クラブでぼったくり被害に遭う(1988) 

 アテネの街中をぶらぶら歩き、デパートに入ったところで自分と同じ年頃の青年に声をかけられた。

「その傘、なかなかいいね」

 おそらく雨が降りそうなどんよりとした曇りの日だったのだろう。私は小さなリュックサックのほかに柄の部分がカラスのような奇妙な形の折り畳み傘を持っていた。

「ありがとう。これ、香港で買ったんだ。ぼくは日本人なんだけど」

 経由した香港で気に入って買った傘だった。それが旺角(モンコック)であったか、湾仔(ワンチャイ)の三越であったか、よく覚えていないが。ともかく、ファッションをほめられてナンパされた女の子みたいに私はちょっぴり気分がよくなった。いうまでもないことだが、人に声をかけられてろくなことはない。声をかける材料として持ち物が選ばれたのだろう。私の警戒心が解かれたわけではなかった。

「ぼくはサイプラスから来たんだ。アテネは地元じゃないよ」

「サイプラス?」

「地中海に浮かんでいる島さ」

「ああ、キプロスだね」

 いまならサイプラスと言われればすぐにCyprusという綴りが浮かんでくるのだが、当時はすぐにはわからなかった。バンコクでの声掛けの件からもわかるように、マカオから来たとかマレーシアから来たと言って、自分もあなたとおなじように地元の人間ではないと偽って、安心させてだますのは基本的テクニックである。私は薄々それを感じ取ってはいたが、実際キプロスの出身であっても不思議ではない。キプロスの話題で会話を進めることもできるのだから。青年は昔のコッポラ映画の「アウトサイダー」に出てきそうな、感じのいい、話しやすい雰囲気を持っていた。

 道を歩きながら話ははずんだ。もっとも、長い時間を経たいま、会話の中身はまったく覚えていないが。思い出したくもなかったので、忘れてしまったのだ。こうして20分ほど歩くと、やや古いが大きくて立派なホール風のレストランの前にさしかかった。門には、営業は8時からという札が出ていた。

「たしかここ、おいしくて、お酒も飲めたかと思う。営業前だけど、入れるかどうか聞いてみるよ。待ってて」

 青年はこちらの返事を待たずに中に入り、しばらくすると戻ってきた。

「大丈夫。お酒ならもう飲めるって」

 警戒ランプはともっていたが、いつでも抜け出せると思いつつ彼のあとから店内にはいった。中は天井が高く、広々として、テーブルが10以上あった。前のほうにはステージもあった。ここでダンスのショーが催されるという。おそらくベリーダンスのたぐいだろう。

 着席すると支配人らしき男が出てきてメニューを見せてくれた。とりあえずビールを注文。いくらか覚えていないが、一杯200円とかそういった値段だったろう。

「意外と安いね」と私が言うと、彼も「安いね」とオウム返しに答えた。

 青年は支配人らしき男と一言二言かわしたあと、無表情な目でこちらを見た。

「ダンサーを呼べるみたい。こっちに来てくれるって」

 どうやらダンス(ベリーダンス?)ショー付きのナイトクラブのようだ。出演するダンサーがキャバクラ嬢みたいなこともするのだろうか。

 ふたりの女性がやってきて、坐った。驚くほどの美女だった。露出の多い衣装をまとっている。わが内なる警戒ランプが黄色から赤色に変わった。いかん、美女すぎるぞ。

 ひとりはギリシア人だという。正統派の白人美女だ。妙に清楚な感じで、ビッチじゃない。もうひとりはエジプト人だという。白人より色白で、透けて見えるようなすべすべした肌の持ち主だ。とてもエキゾチックな顔立ちで、高貴な感じがする。イスラム教徒がこんなところで働いていいのだろうか。いや、コプト教徒かもしれない。ついでにいえば、ギリシア人の女性はギリシア正教のクリスチャンだろうか。もちろん、差し迫っている危機のことを考えれば、信仰している宗教などどうでもいい。

 私はひたすらビールを飲む。相手はエジプト女。となりを見るとキプロス人がギリシア女と談笑しながらビールを飲んでいる。エジプト女が私に聞く。「シャンパン飲んでいい?」。

「え?」しかし断る理由はない。「あ、いいよ」

 となりを見ると、ギリシア女もシャンパンを頼んでもう飲んでいる。一息で。

 エジプト女もクイッと一息で飲んだ。しばらくするとまた一杯、もう一杯。さすがに私は不安になり、キプロス人の耳元に顔を近づけてたずねる。「シャンパンって一杯いくらなんだ? 彼女たち、シャンパン飲みすぎだろ」

「たしかにそうだな。支配人に聞いてみよう」

「もう清算しようよ。なにか様子がへんだから、出ていこう」

 しばらくして支配人が勘定書を持ってきた。そこにはひとりあたり2千ドル近くの数字が書かれていた。ビールが一杯2ドルだとしても、シャンパンは一杯100ドルくらいしたことになる。ここはぼったくりナイトクラブだったのだ。

「やばいな、ここはアメックスのカードが使えないんだって」キプロス人はおびえた表情で話す。

「ぼくはトラベラーズチェックで払うことになる。だけどいくらなんでもこれは高すぎるよ」

 私たちは支配人に高すぎると抗議したが、交渉は別室で、しかも個々におこなわれることになった。私はひとりで店と対峙しなくてはならなくなった。あやしいとはいえ、キプロス人にいてほしかった。しかし……これも戦略のひとつなのだろう。

 私は四畳半くらいの広さの個室に閉じ込められた。テーブルがひとつ、イスがいくつかあるだけで、ほかに何もない殺風景な、警察の取調室のような部屋だ。私はそこでトラベラーズチェックにサインをするよう強制されたのである。サインを促す男、その傍らにもう少しえらそうな男、部屋の隅にも男がいる。男は銃を持っているようだ。しかしはっきり見えない。

 私はできるかぎりサインをくずして書いた。あまり違いすぎると文句を言ってくるだろうから、多少異なる程度のサインを書く。

「このサイン、おかしいぞ」

「いやそんなことないですよ。このくらいなら大丈夫です」

 男は納得しない風だったが、ともかくサインは書いた。あとはトラベラーズチェックの会社が認めてくれるかどうかだ。私は打ちひしがれて部屋を出た。キプロス人もほかの個室から出てきて、「アメックスカードが使えないっていうからまいったよ。あるだけ払って、あとで残りを払わなければならない」と真顔で言った。おそらく演技をしているのだろうが、彼のことはもうどうでもよくなっていた。

 ナイトクラブから出ると車、おそらくハイヤーが待っていた。時刻は12時、外は静まり返っていた。乗り込んだ車はエーゲ海沿いの道を飛ばした。昼間ならどんなにきれいだろうか。ぼんやりと暗い海を眺めていて、ふと方向がおかしいことに気づいた。私は運転手に「止めてくれ!」と叫んだ。歩いてナイトクラブに来たのだから、歩いて帰れるはずだ。しかし車は止まらない。私は走っている車のドアを開けて跳び下りるかまえを見せた。運転手はブレーキをかける。完全に止まる前に私はジャンプし、道路の上にころがった。もう少し早く跳んでいたら、大怪我をしていたかもしれない。叫んでいる運転手を置いて、最初は小走りで、しばらくしてからはとぼとぼと歩いて、私は宿泊しているホテルまで戻った。

 すっかり疲れていたが、休む前にトラベラーズチェックの会社に電話しなければならなかった。私はロンドンのシティバンクに電話をかけ、事情を説明した。再発行は可能で、旅先で受け取ることもできるという。そして被害届が必要だったので、翌朝早くには警察署に行った。警察署はなんということか、あのナイトクラブの目と鼻の先だった。もしかするとつるんでいるのかもしれない、と思ったが、もちろん証拠もないので、疑問を呈することはなかった。被害証明ができればいいのである。いまならSNSを通じて被害を広く世に訴えることもできるだろうが。

 本来ならもっとゆっくりとしたかったが、先を急ぐように私はイスタンブール行きの長距離バスに乗った。50人乗れそうな大型バスだったが、運転手一名、車掌一名に対し、乗客は私ひとりだった。途中、テッサロニキで5名の中国人が乗ってきて、急に騒がしくなった。彼らはテッサロニキ工科大学の留学生だという。時間があればテッサロニキで数日を過ごしたかった。ここはあこがれのアトス山の入り口でもあった。

 ギリシアとトルコの国境上でちょうど年越しを迎えた。ギリシアの検問所を出て歩いているとき、両国の国境警備の兵士たちがいっせいに夜空に向かって銃を撃ったので、ちょうど12時になったのだとわかった。

 イスタンブールがどんなにすばらしい町であるか、弁じ始めたら止まらなくなってしまうだろう。ということで割愛させていただくが、ここに滞在中、私は再発行されたトラベラーズチェックを銀行で受け取ることができた。シティバンクさん、ありがとう。余裕のできた私は本場の大理石貼りのトルコ風呂(ハマム)に行って旅の垢をこそぎ落とした

 真冬のカッパドキアを楽しんだあと、イスタンブールに戻ってきた私は、町中の楽器店でサズという弦楽器を買った。たしか200ドルだった。高校の頃バンドを組みギターを担当していたので、多少の弦楽器の心得はあったが、ギターとはまったく勝手が違っていた。2弦一組で3組の計6弦があり、それぞれの組が「レ・ド・ラ」の音に調弦された。当時の私はワールドミュージックに惹かれつつあり、中東やアフリカの音楽を聴いていた。高校生のときの要領でアラブの曲を「コピー」し、自ら演奏したくなったのである。ずいぶん長い間私は西アフリカや北アフリカ、中東、パキスタンなどの曲を聴いてきたが、年のせいか、やや飽きてしまった。パパ・ウェンバ(19492016)の死とともにワールドミュージック狂いは終焉を迎えてしまった。といってもいまもっとも聴いているのはトランスミュージックなのだけれども。

 イスタンブールで買った航空券はエミレーツ航空だったので、発展する前のドバイに二泊三日も滞在することになった。ホテルのロビーで私は30歳ぐらいのアラブ人に声をかけられた。どうやら私が手に持っていたサズに目を付けたようだ。

「いい楽器を持っているな。ちょっとこちらに来てくれないか」

 ホテルのロビーのほうへ行くと白い民族衣装(カンドゥーラ)を着た男たちが数人坐っていた。いつも思うのだが、カンドゥーラを着た男たちの威圧感はすさまじいものがある。みんな巨万の富を持ったアラブの大金持ちに見えてしまう。当たらずも遠からずではあるのだが。

「楽器をこちらへ。この方は有名な演奏者なのだ」と導いた男が誇らしげに言った。

 50歳ぐらいの演奏者というより神学者のような男が私の楽器サズを手に取り、チョーキングを始めた。持ち運んでいるときは当然弦をゆるめていた。ウィーン、ウィーンと弦を鳴らして調整していたかと思うと、つぎの瞬間にはジャジャーンと弦をかき鳴らした。するとすかさず「オオオー」と歌い出したのは、私を導いた男だった。すさまじい声量、すばらしい歌声、彼は一級の歌手だったのだ。いきなり即興のコンサートがはじまったのである。感動してわが心は喜びふるえていた。


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