(3)ロプチュク村のバクシ(シャーマン)を探し当てる 

                      宮本神酒男


イスラム教徒の地域にシャーマンがいるなんて、だれが信じるだろうか。ウイグル人に対する弾圧で人権問題が生じているこの新疆ウイグル自治区に。実際にシャーマンと会うことになる私でさえ、会う寸前まで半信半疑だった。すでにシャーマニズム文化は絶滅しているのではないか、と私は危惧していた。

 その年(2007年)の夏、私はインド北西部のキナウル地方(言語から吐蕃以前のチベットの大国シャンシュン国と深い関係にあると考えられている)で山上の死者儀礼に参加したあと、アムリトサルのシーク教総本山黄金寺院(ハリマンディル・サーヒブ)に参詣し、パキスタンのラホールの聖者廟で「スーフィー・ナイト」を体験し、タクシラやスワート渓谷のガンダーラ遺跡、さらにチラースやギルギット、フンザなどの壁画群を調べてまわり、パキスタン北部のバルティスタンではチベットのケサル王英雄叙事詩を歌うイスラム教徒のドゥンパ(叙事詩人)と会っている。クンジェラブ峠の手前で念願だった大氷河の上を歩き、中国に入ると、カシュガルからホータンへ移動、ランドクルーザーをチャーターして町から200キロ北のタクラマカン砂漠の中にあるかつてのチベット人の要塞マザール・ターグへ行っている。そのあと私はウルムチ経由でハミ(哈密)へとやってきたのである。われながらよく動いていると思う。(ハミのあとは列車で34時間かけて成都へ、さらに列車で24時間かけて昆明へ移動。そしてバスで20時間近くかけてラオス国境にたどりついている) 

 ハミ(クムル市)の町から70キロほどのゴビ的な瓦礫の多い砂漠の中にめざす村ロプチュク(中国名は五堡郷四堡村)があった。古代ロプ人の城市という意味である。1928年生まれのアブライディ(Ablaidi)という名のバクシ(bakshi)すなわちシャーマンは70歳近くになるので、おそらく現役を退き、次世代に譲っているだろう。資料によると、往時、アブライディは年に100回以上宗教活動をおこなっていた。そしてトランスを伴うヒーリング儀礼は年に30回ほどおこなっていた。しかし現在、継承者がいるにしても、シャーマニズム文化は風前の灯火になっている可能性がある。

 聞き込みをして、すぐに彼の家をつきとめることができた。ごく標準的な家であり、特別な能力を持っているからといってとくに裕福なわけではないことがわかる。のちに日本共産党の穀田氏そっくりの公安のボス(その場の責任者)がこの家の画像を見て「なんだ、この貧しい家は! おまえは中国の貧困ぶりを写真に撮っているのか!」と声を荒げた。失礼な話である。そもそももしそれが貧しい家であったとしても、それが何だというのだろうか。「わが国のことについて指摘するのは内政干渉である!」と居丈高になっている中国の広報官を髣髴とさせた。ともかく、ことさら立派な家でないことから、バクシがシャーマン活動から大きな報酬を得ているわけではないことがわかった。彼はあくまで農民であり、シャーマン活動、とくにヒーリング活動はカネ目的ではない。

「主人は十年前に亡くなりました」少しやつれた感じのやさしそうな奥さんがそういった。「これが写真です」

 顔写真は身分証で使ったものなのだろうか、とても小さかった。そこで私は提案した。「私が持っているカメラはデジタルカメラです。この写真を撮って大きく引き伸ばしてみましょう」

 時代はデジタルカメラの時代に入っていた。フォトショップの時代に入ったともいえた。これで遺影をつくることもできるだろうと私は考えた。しかしあとで述べるように、すべての画像は没収されてしまったので、ご主人の小さな写真を撮った画像もなくなってしまい、約束を果たすことができなかった。

「主人が愛用していた道具はすべて残っています」奥さんの表情が明るくなった。次第に主人のことがよみがえってくるかのようだった。主人を愛し、誇りに思っていたことがよく伝わってきた。バクシは村中から尊敬される存在なのだ。

 儀礼に使っていた短刀や鞭、太鼓、帽子などが私の前に置かれた。これらと小さな写真だけでは生前の様子を思い浮かべることができなかった。写真を見る限りでは漢族と外見上はあまり変わらないように思った。実際に会ったらイメージががらりと変わっていたかもしれない。

 バクシは甥のムハマドに受け継がれているという。私はさっそくこの新しいバクシの家を訪ねることにした。ムハマドは大柄で、眉間でつながりそうな(ウイグル人の特徴のひとつ)濃い眉毛の持ち主だった。歳は三十九で、健康そうであり、この先二十年以上はシャーマン文化も安泰のように思われた。数日後には暗転直下、当局の弾圧におびえることになるのだが。

 翌日にシャーマン儀礼をおこなってもらうことになった。そのために儀礼中に必要となるもの、たとえば布を買いにいかなければならなかった。

 買出しに行く前、私は彼の家族の果樹園に案内してもらった。メロン(有名なハミ瓜)やスイカ、ブドウなどの果樹園は広大だった。「好きなだけ食べていい」と言われて口にしたブドウは十年前に食べたそれまでのベストだったトルファンのブドウとおなじくらい果肉が厚く、甘さと酸っぱさの頃合いがよく、おいしいと思った。

 ニワトリを買いにわれわれは清真ニワトリ屠殺場(正式名は忘れてしまった)へ行った。ここではニワトリを殺す作業が妙にオートメーション化されていた。50センチの等間隔でレールに吊り下げられた生きたニワトリたちが建物の中に消えていった。ニワトリたちは目を開けたまま観念したかのようにじっとしていた。ふたたび吊り下げられたニワトリたちが等間隔で現れるときには、それらはすでに羽がなく、「鶏肉」と化していた。もっとも、私たちは肉化したニワトリは必要なかったので、生きたニワトリを買った。

 翌日、私はタクシーに乗って墳墓に立ち寄った。この遺跡にはミイラが展示されているが(新疆ウイグル自治区はミイラの宝庫である。その多くが西欧人のような顔立ちをしていることに驚かされる)ここのミイラは犯罪現場で発掘された遺体のような感じでミイラらしくなかった。生々しい遺体として見ると、なかなか不気味であった。これがどこであったか確かめようとしていま、地図を見ているのだが、確認できない。どういうことなのだろうか。一般公開をやめたのだろうか。

 そのあとゴビの中の道を走って古代遺跡らしきところに行った。はじめ本物の古代遺跡かと思ったので、名称がたくさんあるわりにはどこもかしこもディテールがはっきりしないな、と私は不満をつのらせた。

「だまされたようだな」タクシー運転手は腹を抱えて笑っている。「ここは本物だが、魔鬼世界の本物の城という意味だ」

 今でこそ「魔鬼城」は有名な観光スポットになっているが、当時私は何も知らなかった。87年にトルファン近くの高昌故城に行ったとき、古代の厨房の炭の痕を見て感動したものだった。そういうものがここには一切なかった。宮城や門、壁に見えるものすべてが風による造形だった。考えてみれば三年前に西チベットで見た風景とそっくりだった。違いは、西チベットの風景には名称がまったくなく、訪れる観光客も皆無に近かったことだ。

⇒ つぎ