山が神である郷 第9章 ネベスキ=ヴォイコヴィツ 宮本神酒男訳 

シェルパと雪男 

 

 1953年5月29日の正午頃、ハント大佐率いる登山隊の二人のメンバーはエベレストの頂上に到達した。二人のうちのひとりテンジンは、ヒマラヤ登山隊には必要不可欠なシェルパ族だった。シェルパ族なしでは英国登山隊のエベレスト初登頂もなしえなかっただろう。

 ヒマラヤ登山の話題となるとかならず姿をあらわすこのシェルパ族とは何者なのだろうか。ヒマラヤについて書かれた数多くの本を読んでこの並外れた人々に関する情報を得ようとしても、徒労に終わるだけである。

 世界でもっとも高い山脈、ヒマラヤの住人はみなおなじ運命をたどる。世界的な注目を集めたとしても、彼らの歴史や生活ぶりなどにはだれも注意を払わないのだ。不幸なことにこれらの山岳民族の多くは古い伝統的な文化を捨て去る過程にあり、文化を保持している民族は絶滅の危機に面している。

 後世のために民族誌的な収集や調査レポート、映像、録音などを駆使してオリジナルの、歪曲されていない姿を保存することは、この地域の人類学的研究をする者にとって喫緊の課題である。しかしヒマラヤをフィールドとする学者ができることには限りがあり、思うように進捗せず、しばしば困難に直面する。

 現在シェルパ族について一般の人に知られていないことを列挙するなら、つぎのような点だろう。

 シェルパ族はもともとチベット人であり、ヒマラヤの高峰を超えてやってきて定着した人々の子孫であり、ネパール北部の隔絶した谷間で独特の精神文化を発展させてきた。彼らの正確な人口は知られていないが、およそ5万人ほどと見積もられている。大半はネパール北部に住むが、シッキムに居住する人も少なくなく、ダージリン周辺にも分布している。エベレスト初登頂に成功したテンジンは、じつはこの地域の出身者である。

 シェルパという名はチベット語で東方の人を意味する。しかし現在ヨーロッパ人はヒマラヤ登山隊のポーターすべてをシェルパと呼んでいる。彼らがタマン族であろうと、リンブー族、グルン族その他の山岳民族であろうと、いっしょくたにシェルパと呼ばれるのである。だが肉体的に頑強で、極端なほどスタミナがある点で、同様に標高の高いところに住むネパールの山岳民族やチベット人を凌駕している。

 シェルパの言語はチベット語の方言だが、ネパール語からの借詞を多く含んでいる。実際現在のシェルパ族は母語とおなじくらいネパール語を話すことができる。

 シェルパ族の習慣のかなりの部分はチベット人とおなじである。たとえばチベット人の一妻多夫制は広くシェルパ族の間でも見られる。シェルパ族の男たちはヨーロッパ式の服装が気に入って伝統的な服を捨ててしまったが、最近までチベット人風のさまになる服を着ていた。

 シェルパ族の女たちはもっと保守的で、ヒマラヤでもっともカラフルな民族服を好んでいる。それは黒か茶の下地に黄、紫、明るい緑かオレンジの絹が施された、袖のない、長くてぴっちりしたジャケットである。それに縞模様のチベット式エプロンが前と両脇に掛けられる。膝までの高さのブーツにはけばけばしい縁飾りがついている。腕には重い銀のブレスレットがはめられている。首にはトルコ石や真珠、珊瑚が飾られた銀やときには金の魔除けの小箱が掛けられている。耳には手のひらほどの大きさの金箔の円板が下がっている。美しい茶色か紫色の毛糸のシェルパ帽は金の留め金で飾られている。

 チベット人とは近親関係にあるにもかかわらず、現在、シェルパ族は郷土であるチベットとの政治的な結びつきはない。今日、彼らはネパール王国の国民である。

 しかしながら、過去数世紀においてダライラマの国とは結びつきがあり、チベットの戦士たちは、シェルパ族がネパールの隣人たちと戦うときには手助けすることもあった。

 数世紀前、東ネパールのカムパ・チェンの谷で実際こうした類の戦争が起こった。ネパール王子のマンガル部族の管轄内に大きなシェルパ族の居留区域があった。マンガルの首領は毎年シェルパ族の村々をまわって、剣の先で脅しながら租税を絞り上げていた。

 ネパール人の税の取り立てがいっそう過酷な年があった。シェルパ族たちは結束して抵抗し、徴税人を殺した。

 殺された男の妻は、すぐに政府の仕事を引き継ぎ、夫の遺体を回収するために軍隊を出した。それから彼女は大きな葬送の宴を開き、カムパ・チェン谷のすべてのシェルパが招待された。信じやすいシェルパたちは妻や子どもたちといっしょに宴にやってきて、マンガル王女が用意した酒を浴びるように飲んだ。

 彼らは生命の危機に瀕しているのに、なんら注意を払っていなかった。復讐心に燃える王女は酒に毒を仕込んでいた。この毒酒を飲んで千人ほどのシェルパ族が命を落としたという。ここはいまも「千人殺しの谷」と呼ばれている。

 このホロコーストから逃れることができたわずかなシェルパたちは、隣のチベットの州の総督のところに駆けこんで助けを求めた。総督は王女を罰するために、すぐに軍隊を出動させた。

 王女は要塞に隠れたが、チベット軍はその周囲を取り囲んだ。3か月の間、王女はそこに立てこもった。チベット軍は水の供給を断ち切って、要塞を守っている兵士たちの音をあげさせようとした。

 貯蔵されている水がいよいよ尽きようとしているとき、王女は敵をあざむくために、残りの水すべてを胸壁越しにぶちまけるよう命じた。

 チベット軍はこの策略にひっかかり、勝つ見込みがないと感じて、引き上げて帰って行った。王女はすぐに兵士を集め、敵兵を追いかけた。

 しかし彼女は自分の軍隊の力を過信していた。結局チベット軍のほうが力が上であることが証明されただけだった。彼女自身、チベット軍に捕らえられ、激しく抵抗しているときに殺されてしまった。

 すべての敵を破ったあと、チベット軍はマンガルの居住区に侵攻し、戦利品をシェルパ族と山分けした。

 シェルパの宗教はチベット仏教であり、大部分はニンマ派を信仰している。この宗派の僧侶は結婚が許されている。それゆえ彼らは家族と住み、農業や交易に従事している。大きな宗教的祭礼のときにのみ彼らは僧侶の服装をし、近くの寺院に集合する。

 シェルパ族は信仰心において従兄のチベット人に劣ることはない。チベット人と同様、シェルパ族の「習慣的なお祈り」はさかんにおこなわれている。シェルパ族の寺院の近くにはたいてい石板を積み上げた長い壁があり、それには祈祷の言葉が刻まれている。この周囲を歩くことは宗教的恩恵をもたらすとされる。寺院の内側にはギーギーという音を発する、中に聖なる経巻が詰まった大きな祈祷ためのマニ車がならぶ。建物の前には旗竿が立ち、その頂には祈祷の旗がはためいている。

 シェルパ族のラマたちはとりわけ近くの雪の山頂に敬意をあらわす。そこには数えきれないほどの神々や魔物が住んでいると信じているからである。それらは幸運や恩恵を、あるいは病気や死をもたらす。

 ずっと昔から、シェルパ族の僧侶たちは多くの神秘的な伝統を守ってきた。彼らは占いの書やサイコロを使って神々に伺いを立てる。また羊の血の染みがついた肩甲骨を焼き、骨の組織のひび割れ具合を観察して未来を予言する。ワタリガラスのカーカーという鳴き声やフクロウのホーホーという鳴き声は、人間の幸運や災いがいつどこで起こるかを示す徴(しるし)なのである。

 シェルパの男たちが夕方家の祠堂に集まったとき、古代の習慣の記憶が呼び起こされる。ここで家族会議が開かれ、ここで彼らは客を受け入れる。私はギット(Git)に滞在しているとき、しばしば近隣のシェルパの村を訪ねた。そして裕福な家にはかならずある祭壇の横の名誉ある場所が与えられた。それは素朴な彫物が施された幅の広い箱で、内側にいくつかの仕切りがあり、弱々しく微笑むブッダか、槍を振り回す太鼓腹の悪魔の金箔の像が入れられていた。矢が垂直に刺さったトウモロコシの器と水がいっぱいに満たされた水差しが像の前に供え物として置かれた。家族のだれかが登山隊に参加した記念に撮られた、かすれてよれよれになった写真がしばしば祭壇の横に掲げられていた。

 シェルパの家に泊まることもあった。夕刻になると、暗闇は突然降りてきた。山麓に2、3の揺らめく落ち着かない光があらわれ、家に近づいて来るのが見えた。近隣の村からの訪問客だった。彼らは手にランタンを持っていた。その光は、夜の闇の中をうごめく邪悪な精霊を脅かすと考えられていた。下の扉があくと、猥雑な声がかけられ、ピッチの高い笑い声がどっとあふれ出た。そして夜遅い訪問客はなかに入ってきた。

 彼らはまず仏像のほうを向き、手を合わせ、祈祷の言葉を唱えた。彼らのひとりはおそらく紅衣のラマである。彼は祭壇の前で、額を数回地面につけて礼拝した。神々に挨拶したあと訪問客たちは低い位置の座布団に厳かに坐った。

 その日のささいなできごとから会話ははじまる。夜遅くなると、雑穀の酒もだいぶ進み、次第に話ははずむようになる。シェルパ族のあいだでは、酒は極端なほど厳粛に飲まれる。まずコップの端にバターが塗られる。幸運を呼び込むためである。そして麦わらを酒に浸して吸い上げ、それを地の魔物たちへの供え物として地面にたらす。そのあと指を酒に浸し、永遠に喉が渇いている地獄の霊への贈り物として、四つの方向に数滴ずつ撒く。

 これらを終えて、主人や家への祝福をつぶやいて、やっと客は酒を飲むことができる。シェルパの夜の雑談時間に私はたくさんの奇妙な話を聞いた。古い伝説や狂気じみた白人の主人の無謀な登山の話などを彼らはならべたてた。

 彼らはとくにイエティと呼ばれる神秘的な雪男についてしゃべりたがった。彼らはみなヒマラヤの雪域に類人猿のような邪悪な生き物がさまよっていることを確信していた。それが目撃されることはめったになく、目撃されるにしても遠くからだった。それは恥ずかしがりやの生き物だった。いずれにしてもシェルパ族はそれと遭遇するのを避けた。雪男を見ると災難にあうと信じられていたのだ。

 雪男は本当にいるのだろうか。西欧の出版物ではたびたびそれについて論議されている。ヒマラヤ登山隊はしばしば雪が永久に積もっている地域に奇妙な足跡を発見し、レポートしている。英国の登山家エリック・シプトンが1952年のエベレスト登山の際に撮ったすばらしい雪男の足跡の写真を持ち帰ったとき、推理ゲームは頂点に達した。痕跡を残したのがどんな生き物か、さまざまな仮説が唱えられた。

 一部の人は瞑想をするために雪原を踏破するインド人ファキールが残した足跡だと考えた。一方英国では、ロンドンの自然史博物館が倉庫から出所不明のヒマラヤ・ラングール(猿の一種)の剥製を取り出し、ヒマラヤの高度の高い地域で発見された猿の一種であるとあわてて推論を下し、エベレストの雪の上に発見された足跡の真の主であるかのように展示した。

 しかしこれで議論が終わったわけではなかった。自然史博物館の同僚たちでさえこの意見にくみしなかったのである。そもそも測定された足跡とシプトンが撮った写真が異なるものであることを彼らは指摘した。足跡は、通常のヒマラヤ・ラングールのものよりはるかに大きかったのだ。

 民俗学の勉強をしているとき、私はよく雪男の伝説について聞いたものである。私が会った人々はこのヒマラヤの神秘的な住人に出会ったと主張していた。この十年、私はまたチベットやヒマラヤについて書かれた本の中にいわゆる「雪男の足跡」とされる多数の素描を見てきた。

 多くの動物学者はこれらの足跡を見て、茶色ヒマラヤ熊のものと認定した。この熊はチベット語でミデ(midre)と呼ばれる。「人熊」という意味である。それにはガンミ(gang mi)、すなわち「氷河人」という語が付される。しかし誤解もあって、ヒマラヤ登山隊によって「忌まわしいもの」と訳されてしまった。誤訳が正されることはなかった。いまも人々はそれを「忌まわしき雪男」と呼んでいるのである。

 しかし熊の足跡以外にも、大きな人間の足跡のようなものが発見されていた。これらは動物学者を困惑させた。あきらかに科学の世界で知られているいかなる生き物にも適合しなかったからである。

 初期のヒマラヤ登山隊のレポートをちらりと見ると、この地域に存在するといわれる未知の生物は伝説の雪男だけではないことがわかる。8万フィートの峰々の頂の上空を舞う巨大な白ワシが目撃されたという報告もあった。またヒマラヤには巨大トカゲもいると考えられてきた。

 この巨大トカゲの目撃の話は、アパ・タニ族から出てきたものだ。アパ・タニ族自身は目立たずヒマラヤのなかで生き抜いてきた人々である。ヒマラヤ東部の困難な地域をすみかとしてきた。長い間その名のみ知られてきたが、探検隊が彼らの地域にはじめて入ったのは、第二次世界大戦がはじまろうとしている頃だった。

 そこで探検隊はこの聞いたことがない物語を耳にした。アパ・タニ族の主張によれば、彼らの谷はもともと大きな湖だった。彼らの先祖が谷の水を排出し、周囲の森の木々を伐採しようとしているとき、彼らがブムと呼ぶ巨大な恐ろしいトカゲと出会った。

 トカゲの姿はいままでに知られたいかなる種類のトカゲとも合致しなかった。地元の人の話では、アパ・タニ族の地域の端にある村から50マイル北方にもうひとつの村があり、そこに数頭のブムがいるという。

 数年後、英国の代表的な新聞の資金によって、ブムを探すための新たな遠征隊が組織され、東ヒマラヤに送られた。遠征隊はまず通行不能な鬱蒼とした森を切り開かねばならなかった。崖や棘だらけの茂み、蚊やヒルと戦わなければならなかった。しかしこれだけの努力をしても、得るものはなにもなかった。ブムは見つからなかった。遠征隊が出会う現地の人々は巨大トカゲについて話したが、本当かどうか確認することはできなかった。ブムはおそらくブラマプトラ川に姿を見せるワニの一種に違いなかった。

 雪男とは、ヒマラヤに隠れ家を見つけた知られざる動物なのか? これはさらに調査すべき価値のある問題だと思われる。民族学的な調査と並行して私は雪男に関する現地のレポートを集めはじめた。

 はじめに私はチベット人の友人たちに聞いてみたのだが、彼らがヒマラヤの奇妙な住人についていかに多くのことを語れるかを知って驚かされた。チベット人はミデ熊以外に、雪原に足跡を残す猿のような生き物をミチェンポ(mi chempo)、すなわち大きな人、ミボムポ(mi bompo)、すなわち強い人、またガンミ(gang mi)、すなわち氷河の人などと呼んだ。この最後の表現はすでに述べたように茶色ヒマラヤ熊を指す言葉としても用いられる。

 一般的な言葉としてはミゴ(mi go)、すなわち野生の人である。

 そして私は、ほとんど絶滅しかけている仏教伝来以前からあるボン教の呪術師が所有する、黄色く褪せた書のなかに、雪男のことが言及されているのを見つけた。この書には、雪男の皮を衣服として着ている悪魔のような神、ならびに呪術に使う材料として犬の血、有毒の根っこ、雪男の骨髄と血について記されていた。

 呪術治療の準備のために、矢によって殺された雪男の血、あるいは別のところで推奨されているのだが、剣に突き刺されたミゴの血のみが使われるようにという指南文が記されていた。

 私が聞いた物語の大多数は純粋に創作物であり、豊かな想像の産物だった。棘に引っかかって苦しんでいたミゴを助けたところ、あとで感謝のしるしにミゴから山羊をもらった、などというハンターの物語を聞かされたことがある。

 ほかのチベット人によれば、すべてのミゴは武器になる大きな石を運んでくるという。またほかのチベット人は、雪男はとても長く生きると主張した。たとえばミゴリ(雪男山)の山腹では、ときどき足を引きずって歩く雪男が目撃された。当地の伝承によれば、その雪男は人間の三世代前に怪我をしたのだという。

 すでに述べたように、雪男のことはレプチャ族にも知られている。彼らはチュムン(Chu Mung)、すなわち氷河の精霊と呼び、すべての森の生き物の神として崇拝した。

 これ以外にも、雪男のことを真剣に取り扱うべきだという主張も聞かされてきた。そう主張するのは、さまざまな地方から来たチベットの役人である。彼らはインドで西欧式の教育を受け、ほかの一般のチベット人と比べると迷信に懐疑的だった。それにもかかわらず、彼らの一部は雪男が本当にいると信じ、なかには実際に見た者もいた。

 大臣カショパの代理人であるニマは、雪男の道を三度横切ったことがあると断言していた。はじめてミゴの道を見つけたのはかれがまだ子どもの頃だった。チュンビ谷の第一寺院であるドゥンカル寺で、彼は冬の数か月を過ごしていた。

ある晩、寺の外からミゴ独特の笛の音のような声が聞こえてきた。それは寺院の中に住む人々の心に恐怖を与えた。

 翌朝、彼らは寺院の壁の向こう側の雪の中にミゴの足跡を発見した。ミゴが森の中からあらわれたのは久しぶりのことだった。

 何年かのち、数人のチベット人の仲間といっしょにシッキムからチベットへ旅をしているとき、雪に覆われたナトゥ峠で夜を過ごした。暗闇がやってくると、キャンプからそれほど遠くないところからミゴ独特の笛の音のような声が聞こえてきた。明け方、彼らは足跡を発見した。ニマがその足跡をたどっていくと、突然保護壁になっていた岩の向こうから何かがあらわれた。猿のような生き物が、あわてることもなく、よろめくような足取りで立ち去って行った。そして山の尾根の向こうに消えていった。

 ニマがミゴに三度目に会ったのは、チュンビ谷のヤトゥンから7マイルほどの深い森の中のことだった。彼はほかのチベット人といっしにそこに野営していた。夜の間ニマと仲間たちはミゴが近づいてくる音を聞いていた。歓迎されない訪問者を脅して近づけないようにするため、彼らは急いで火をつけた。しばらくキャンプのまわりをうろついていたミゴは、一度、炎の光の中に入ってきた。ニマは毛深いミゴの背中を見た。

 ニマはまた、ナトゥ峠の近くで捉えられた雪男の話をしてくれた。ある日峠道近くのバンガローのチベット人の管理人は、雪男がバンガローに近づき、桶から水を飲んでいることに気がついた。猿のような生き物が戸の割れ目から中に入り、バンガローの前をうろうろしている様子を眺めた。

 翌日ミゴが戻ってきたときに彼らはそれを捉えようと決めた。彼らのうちのふたりがずるがしこい案を考えた。水のかわりにチベットのビールを桶に入れ、縄と竿をもって彼らは身を隠して待った。ミゴはたしかにやってきた。いつものように桶のところへ行き、飲み始めた。ミゴははじめ驚いたように見えたが、あきらかにビールが気に入っているようだった。またたくまにビールを飲みほしてしまった。まもなくしてミゴは地面にごろりと横たわった。チベット人たちはすかさずミゴの手と足を竿にくくりつけた。

 彼らはミゴを担いで、できるだけ速くもっとも近い町まで急いだ。ヨーロッパ人のサーヒブ(旦那)たちならこの奇妙な捕り物にたいし、たっぷりとお金を払ってくれるだろうと考えたのだ。しかしすぐに雪男は目を覚ました。それは苦も無く縄を破り、山腹近くの岩の合間を飛び跳ねて消えてしまった。

 驚くべきことは、チベット人、シェルパ族、レプチャ族すべてが雪男の外見に関してはほとんどおなじことを言っているのである。「指名手配」のヒマラヤの住人に出された逮捕令状によると、後ろ脚で立ったときの身長は7フィートから7フィート6インチということである。屈強な体は黒茶色の毛で覆われている。腕は長い。頭は楕円形で、顔は猿のよう。顔と頭を覆う毛はまばらである。彼は炎の光を怖がり、ヒマラヤの迷信深くない住人からは、傷ついたときのみ以外は人を襲わない、害のない生き物とみなされていた。

 地元のハンターたちが言うには、雪男という言葉は間違っている。第一にそれは人間ではなく、第二にそれは雪の積もる地域に住んでいるわけではなかった。それの居住地は、ヒマラヤの森のもっとも高いところにある入ることのできない茂みなのである。

 昼間、それは隠れ家で寝て、暗くなるまで外に出なかった。それが近づいてくるのは、枝が折れる音と独特の笛の音のような声でわかった。森の中では、ミゴは四足で歩くか、木の枝から枝に飛び移って移動した。開けたところでは、それは立って、不安定によろけながら歩いた。ではなぜこの生き物は、居心地の悪い、雪が積もった地域に弱りながらも遠征しなければならないのだろうか。現地の人がもっともらしい説明をしてくれた。つまり雪男は、モレーン(氷河が運んだ岩の堆積物から成る地質帯)の岩の合間に生える塩気を含んだ苔が好物なのである。この苔を探し回っているとき、雪原に足跡が残されるという。塩分の飢えが満たされると、それは森に帰っていった。

 1953年夏、インド人登山家がネパールとチベットの国境の僧院で、奇妙な発見をした。この寺院の僧侶たちは大きな乾燥した頭骨を保存していたが、それが雪男の頭部だというのである。頭骨はまばらな赤い毛で覆われ、地元の人々がいうミゴの頭の特徴とおなじ楕円形をしていた。インド人登山家は雪男の頭部の写真を撮り、一握りの毛髪を持ち帰ることに成功した。私が知るかぎり、調べられたが、毛髪と頭骨はいかなる動物のものとも合致しなかったという。

 一年後、雪男の謎を解くために、遠征隊が派遣されることになった。数人の英国人、米国人、インド人の動物学者から結成された。何週間にもわたってネパール北部の山岳地帯が徹底的に捜査された。しかし何も探し当てることができなかった。雪男が捕まえられることはなかった。幸運にも、と私は言いたい。私たちにとって雪男は説明できない現象なのである。なんら目新しいものがなくなりつつあるこの世界において、最後に残されたミステリーなのだ。


〔訳者補注〕 
 このエッセイが刊行されたのは1956年なので(作者はその3年後に36歳の若さで逝去)、書かれたのはその少し前ということになるが、残念ながら、雪男の謎はこの時点以上に解けているとは思えない。むしろ最近はチベット人からの視点が欠けていて、そのぶん退行しているとさえいえる。
 上述の1953年に発見された雪男の頭部というのは、クムジュン寺のイェティ(雪男)の頭皮のことだろうか。私は1986年にこの頭皮を手に持ったことがあるが、イエティのものには思えなかった。これは1960年にヒラリーの探検隊が調べてカモシカの毛皮と断じられている。最近の科学的な調査によると、そのDNAは北極熊のそれとほぼ一致したという。現在は絶滅した熊の頭皮なのかもしれない。
 ところでNHK・BSの番組によれば、現在イエティの頭骨の拝観料として、500ドルを取っているという。団体で払うのなら高額ではないかもしれないが、げんなりする話である。

 チベット人はしばしば雪男と熊を混同する。
 私が以前訳したダライラマ6世ツァンヤン・ギャツォの伝記(これはフィクションとしてとらえたほうがいい)を読むと、主人公はヒマラヤを越えてインド・ネパールへ向かう途中、ミデ(
mi dred)に遭遇している。直訳すれば人熊であり、中国語では人熊はチベットヒグマを意味する。なぜ人熊と呼ばれるかといえば、二足歩行することがあり、そのさまが人間に似ているからである。ミデとは人間のように見える熊のことなのだ。見方をかえればたんなる熊ではなく、人のような行動をとる熊ともいえる。類人猿ならぬ類人熊である。

 人のように見えない熊はデ(
dred)で、中国語では馬熊という。日本語ではこれもヒグマになる。写真で見る限り人熊のほうが大きく見えるが、正確なところは私にはわからない。このデは、鬼を意味するデ('dre)と音がよく似ている。熊は鬼(悪霊)と混同されたのかもしれない。

 イエティはシェルパ語(チベット語の方言)だが、ヤーデ(g-ya' dred)つまり岩山の熊という意味だ。

 ほかにミチェンポ(大きい人)やミボムポ(強い人)、ガンミ(氷河の人)などを挙げ、もっとも一般的なのは野生の人を意味するミゴ
(mi rgod)だという。これは中国語の野人(イェレン)とおなじである。雪男の正体が野人で、森に棲む未知の類人猿だとすれば納得できるだろう。ふだんは人が到達できない森に隠れ住み、ときおり塩分を含む岩苔を求めて雪原を歩く。現人類も遺伝子を引き継いでいるシベリア・アルタイ地方のデニソワ人(ネアンデルタール人の近種)は16万年前に生きていた。チベット六大仏教僧院のひとつラブラン僧院のある夏河のデニソワ人は4万1千年前に生息していた。インドネシアの小さな原人フローレス人は1万2千年前まで生存していたといわれていた。(現在は6万年前に修正) 今後も化石が発見されれば、ホモサピエンスの亜種が最近まで生きていたことがわかるだろう。イエティもヒマラヤに棲む猿ではなく、デニソワ人やフローレス人の親類かもしれない。

 また何十年か前の話だが、チベット南部に毛むくじゃらの人が現れ、有名人物になったことがある。彼はミゴとみなされていた。このような先祖返りともいうべき現象はしばしば起こったのかもしれない。何といっても、チベット人はダーウィンの進化論よりもはるかに昔から、祖先は猿だったと信じる人々だった。

 チベットの数ある神話伝説のなかには、「娘と野人」という野人伝説が採集されている。内容は中国の野人伝説とよく似ているので、本当にチベット起源といえるか検証する必要はあるが、もしかするとチベット・ヒマラヤから中国、とくに神農架とを結ぶ地域に分布した巨人(ギガントピテクス)伝説の名残かもしれない。

*別の機会に詳しく論じたいけれど、中国西南のチベット人に近いチベット・ビルマ語族の民族のなかには、祖先のことを記した絵巻物が伝えられていて、そこには猿ではなく、猿のような野人が登場する。チベット族を含む多くのチベット・ビルマ語族が猿祖先伝説とともに野人祖先伝説をもつことは非常に重要である。シェルパ族もチベット・ビルマ語族のひとつなのだから。

 さて、著者(ネベスキ=ヴォイコヴィツ)は雪男スポットとしてナトゥ峠を紹介している。シッキムの首都ガントクから東へ進むとナトゥ峠があり、ここを越えると現在は中国領のチュンビ谷に出る。上記のダライラマ6世の物語の主人公もこのあたりでミデに遭遇したのかもしれない。

 このエッセイで興味深いのは、ボン教の書物に雪男が出てくる箇所である。雪男の皮を着た悪魔のような神とは、どの神のことだろうか。またこの呪術的な儀式はいまも残っているのだろうか。この雪男はヒグマ(ミデ)ではなく、野人(ミゴ)だという。熊ではなく、類人猿なのである。それでも実際に儀礼に用いるのは熊かもしれないが。あるいはこの悪魔のような神が雪男の正体なのかもしれない。すると雪男は精霊ということになる。

*NHK・BSの番組(『幻解!超常ファイル 雪男イェティの謎』2014年12月)では、雪男がエベレストの麓のタンボチェ寺院でおこなわれる舞踏(マニ・リンドゥ祭だろう)に出てくるマハーカーラの眷属の一つと述べられている。マハーカーラは何百か所(何千か所?)で行われるチベットの仮面舞踏の定番である。マハーカーラはチベット語でナクポ・チェンポ、ヒンドゥー教ではシヴァ神のこと、日本では大黒天となった。チベットのマハーカーラはゴンポ(mgon po)すなわち護法神であり、72種類、あるいは75種類に分類される。それの眷属となると多すぎてもはやだれにも把握できない。ただしタンボチェ寺院(ニンマ派)の護法神の眷属と特定されているなら、名前はあるはず。
 この仮面舞踏に出てくる異形の神には、「隠された谷」ケンパルンの守護神である地元の神スルラ・ラキェや、恐ろしい顔のドルジェトロ(パドマサンバヴァの化身)などがあるが、雪男とは関係ない。
 舞踏の合間にコミカルな寸劇がおこなわれる。ここに雪男らしき男が出てくる。この雪男は精霊だろうか。チベットの場合、寸劇だからといって軽く見ることはできない。雪男が低次の神だとすれば、こういうかたちで観客の前に姿を現すこともあるだろう。
 この精霊がネベスキ=ヴォイコヴィツのボン教の神と同一の可能性は十分にあるだろう。

*ここまで書いたところで、ネベスキ=ヴォイコヴィツ氏自身がこの野人(ミゴ)について別の場所でも詳しく述べているのを発見した。そこには、上述のボン教の呪術とチベット人やレプチャ族の野人(雪男)信仰のことが書かれている。
 ここでも、熊(ミデ)と野人(ミゴ)は明確に区別されている。ミゴは身長7フィート(210cm)以上あり、ふだんは限界線近くの高い森に住み、塩分の多い岩苔を求めて岩場に出ることがある。最初にまちがって「忌まわしきもの」と呼ばれたが、地元の猟師によれば「恥ずかしがりやで無害」だという。
 思うに、森から出た場合は岩場を歩くのだから、雪上に足跡を探すのは効率的なやりかたとはいえない。また、近年人(観光客)が増えているエベレスト周辺にはもはやイエティはいないのではないかと思われる。登山やトレッキングの経験のある人ならわかるだろうが、人間を寄せ付けないノーマンズ・ランドは思いのほか広大であり、かろうじてどこかにこの類人猿が生息していても不思議ではない。

 

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