折々の  Mikio’s Book Club  

    宮本神酒男 

 

第5回 河口慧海曰くパドマサンバヴァは悪魔の使い 河口慧海『チベット旅行記』

 

 はじめて慧海の『チベット旅行記』を読んだのがいつのことか、どうしても思い出せない。うじきつよし主演の力作テレビ・ドラマ「風になった男 河口慧海ネパール百年の旅」(NHK)が放映されたのが、いま検索すると、1997年11月のことで、そのとき読んでからずいぶんたつので中身を忘れてしまったなあ、と思ったので、90年前後のことかもしれない。ドラマに感銘を受けたものの、再読はしなかった。 

 このドラマの舞台であるネパールのダウラギリ峰の麓の村マルパを訪ねたのは、ドラマを見てから数年後のことだった。現在、このあたりは意外と瀟洒なみやげもの屋やカフェ、ホテルが並んでいて、慧海の頃とはずいぶん様変わりしている。そんな雰囲気の場所に、慧海が滞在した家があり、現在は改築されて河口慧海記念館となっている。ここに展示されている衣服や経典を眺めれば、中国人僧に扮してチベットへ入域しようという無謀な計画を前に身震いする慧海の姿が彷彿とされる。*慧海は村の名をマルバとする。デーワナガリ文字表記を見るかぎり発音はマルパ。 

『チベット旅行記』の記述で記憶に残っていた数少ない場面は、「登山の稽古」だった。「空気の希薄な所に至って重い荷物を背負って行く」ということを想定してトレーニングをおこなったのである。スポーツや登山という概念が発達していなかった時代によくそんな科学的な取り組みができたなあ、とはじめて読んだとき、感心したのである。登山家ではないけれど、高山を歩くトレッカーとして、私も植村直巳ばりに富士山登山をして高所に慣れようとしていたこともあった。(その後毎年のようにも3千m以上の高所へ行くようになったので、必要なくなった)慧海は、当時からそういった知識を持っていたことになる。

 今回久しぶりに『チベット旅行記』を読み、新鮮な驚きを覚えた。第一に、すべてとは言わないものの、慧海が行った場所のかなりのところに私自身、行ったことがあるのである。チベット側に入った慧海がラサへ行く前にめざしたのは、カイラース山とマナサロワル湖だった。ネパールのムスタンやドルポの北側に位置するチベット側の地域を旅したとき、私は「ああ、たしか慧海は雪の中で遭難しそうになりながら、なんとかこのあたりに抜けてきたのだな」と思ったものである。しかしカイラース山やマナサロワル湖に行ったとき、私は百年前に慧海が来たことをすっかり忘れていた。

 マナサロワル湖よりすこし向こう(西方)のプレタプリ(慧海は餓鬼の街と訳している)にまで慧海は足をのばしている。通常は千年前にインドの仏教僧アティーシャが名称をティルタプリに改めて以来、そう呼ばれているとされるが(慧海はアティーシャがプレタプリに改めたと説明している)このあたりは小石が積まれ、衣類などが捧げられ、まるで恐山のような恐怖感漂う聖地である。この地に建てられたドゥク派(慧海はズクパと呼ぶ)の寺院にも言及している。

 話をすこし戻すと、慧海は飛行場のあるジョムソン(慧海が滞在したマルパの北)の北東にあるヒンドゥー教徒、仏教徒双方にとっての聖地ムクティナートを訪ねている。私もここに詣で、暗い岩穴のなかの「永遠に消えない火」に感動したのだが、慧海はたんなる自然現象とみたようで、「愚民がこれを見ると水の中から火が燃えて出るようにみえる」と嘲るように書いている。慧海はこの現象が火山と関係していると考えたようだ。愚民の私はしかし、火山というより天然ガスと関係があるのではないかと思っている。

 『チベット旅行記』を再読して驚いたことの2番目は、慧海の宗教上の立ち位置である。彼は黄檗(おうばく)宗に所属する僧侶だった。近所の向島に弘福寺という黄檗宗の寺があり、たまに参拝することがあるので、私は最近、岩波文庫から出ている黄檗希運禅師がまとめた『伝心法要』を読んでいた。読むといっても難しくてなかなか読めないので、ブロフェルドの英訳を参照している。慧海が得度したのは、この寺ではないが、さほど遠くない本所の五百羅漢寺(現在は目黒に移転)だった。慧海がこの『伝心法要』を熟読していたことはまちがいないだろう。

 チベットへ行く決心をする前、慧海はスリランカから帰ってきたばかりの神奈川県在住の釈興然というテラワーダ(小乗仏教)の僧侶のもとへ修学に行っている。一年余りのち、釈興然が「小乗教はすなわち純正の仏教である。(……)それゆえ本当の僧侶は黄色の袈裟を着なければならぬ」と言い始めたので、慧海とのあいだに議論が起きる。

釈興然はまた、「(チベットなんか行かずに)セイロンに行って真実の仏教を学ぶべきだ」と言い放った。もしこのとき釈興然の言うことをもっともだと思っていたら、われわれが知る慧海は誕生していなかったことになる。

 しかし慧海は、インド本国で大乗仏教の原典は失われているが、その完全な翻訳がチベットにあるはずだから、チベットへ行くべきだと確信していた。当時の日本人はチベットについてほとんど知らなかったし、知っていても、欧米経由の情報ではあやしげなラマ教がはびこる国というイメージしかなかったであろうから、チベットの仏典の存在意義を認めていたのは、驚くべきことと言わざるをえない。いや、いまでさえ大半の日本人はリンチェン・サンポら多くの翻訳官によって仏典の大半がチベット語に訳されたことを知らないかもしれない。

 第3に、慧海がダージリンでサラット・チャンドラ・ダースと会っていることである。インド人の名はどれも同じようなものに感じるので(カルカッタで手助けしてくれたのはチャンドラ・ボースだが、あの戦前、戦中の日本と関係が深かったチャンドラ・ボースとは別人)このサラット・チャンドラ・ダースがチベット語の辞書編集で有名なチャンドラ・ダースということに気づかなかった。(『チベット旅行記』にはきちんと説明してある)

 私はいまでも使える辞書と2冊の著書、『ラサと中央チベットへの旅』(A Joueney to Lhasa and Central Tibet)と『雪の国のインド人パンディット』(Indian Pandits in the Land of Snow)を持っている。慧海のチベット語修得のアドバイザーは、この上ないチベット語の権威だったのである。慧海は彼が紹介してくれたラマの家に寄寓し、チベット語の俗語を学ぶ一方で、ダージリンの学校に通って正式なチベット語を学んだ。

 第4に、これがもっとも驚いたことではあるが、慧海は痛烈にパドマサンバヴァを批判しているのである。チベット文化に興味を持っている人なら、グル・リンポチェの名で呼ばれる第二のブッダ、パドマサンバヴァの名を聞いたことがあるだろう。中国の歴史書で吐蕃と呼ばれたチベット(ヤルルン朝)の全盛期、8世紀のティソンデツェン王の時代、インドから高僧シャーンタラクシタが呼ばれ、最初の仏教寺院サムイェ―寺が建立された。このとき跋扈する妖魔悪霊の類を鎮圧するために呼ばれたタントラ僧こそがパドマサンバヴァ(蓮華生)だった。

 庶民からはグル・リンポチェとして親しまれ、ニンマ派からは祖師として敬われる一方で、正統派であるゲルク派からすれば、やや扱いにくい聖僧だともいえるだろう。

 慧海はセーラブ・ギャルツァンというモンゴル人の博士と道中知り合い、このパドマサンバヴァについて論ずる。慧海はタントラ教(この場合ニンマ派)を「両性交合教」と呼び、その開山の蓮華生という僧侶は「肉も喰えば酒も飲み、8人の妻を持っていた人」であると弾劾する。しかし博士は、この蓮華生を「清浄なる僧侶とし救世主として尊崇した」のである。

 慧海はさらに激しく「悪魔の大王が仏法を破滅するためにこの世にくだり、かかる教えを説いた」と非難する。しかし博士は、蓮華生その人は仏の化身として疑わなかった。慧海は、このあたりの土民(地域の住民)は「この汚らわしい蓮華生の仏教を盲信すること実にひどいもの」と嘆いている。

 プレタプリの章(第36回)でも、慧海のパドマサンバヴァ批判は止まらない。シャカムニ仏とチベット仏教の古派の開祖ロボン・リンポチェの肖像がならべられて祀ってあることにもケチをつけている。ロボン(sLob dpon)はグルとほぼおなじ意味で、ロボン・リンポチェはグル・リンポチェのことであり、パドマサンバヴァのことである。ここでも慧海は「ロボン・リンポチェとは悪魔の僧侶に姿を変えて真実仏教をみだすという大罪悪人」と決めつけている。

 現在においても、戒律の厳しいゲルク派がチベット仏教の主流であり(その長はもちろんダライラマである)、婚姻も許されているニンマ派が下に見られるという傾向はつづいている。しかし1959年以降、各教派の転生ラマや哲学者が国外に亡命した際、欧米ではむしろニンマ派やカギュ派のリンポチェのほうが多く受け入れられたのである。ゲルク派の祖というべきツォンカパも、慧海が汚らわしいと感じたタントラの部分を消化しながら顕教を修めていったことを知れば、慧海もすこしは考え方を変えたかもしれない。

 欧米や日本でも、ニンマ派のゾクチェンはかなり人気のある哲学であり、修行法である。すくなくともゾクチェンを好む人々は慧海がいう「汚らわしい宗教」を実践しているわけではない。慧海には、ぜひゾクチェン哲学を学んでもらって、その上でこのパドマサンバヴァ(蓮華生)について考えてもらいたいものである。


関連⇒ パドマサンバヴァの実在性(トゥカン・ラマ) 


   ⇒ ボン教版グル・リンポチェ伝