他性空の変遷

サイラス・スターンズ著 編訳 宮本神酒男

 

2 ドルポパと他性空

 ツェン・カウォチェやユモワ、その他後年他性空として知られる教義を教えた師たちは、あくまで小さなグループのなかで私的に教えていたにすぎない。11世紀から14世紀にかけて、この系統に属した者が書いた論文はどれも後世に残らなかった。

 ドルポパが覚醒し、その教義を他性空と名づけるまで待たねばならなかった。このことばと教えは今ではチベットでは広く知られている。

 ドルポパが他性空の認識を宣言した当時の状況については第1章(『ドルポから来たブッダ』)で述べたとおりである。この賛否両論の教義については、第3章やパート2で詳しく吟味することになるだろう。ここでは彼の画期的なことばの使用法、動機、経典解釈の方法などについて論じたい。

 ドルポパ自身の記述からも、彼の理論のもっとも重要なソースとなったのは、カーラチャクラ・タントラ、ヘーヴァジュラ・タントラ、チャクラ・サンヴァラ・タントラについての論釈『三菩薩釈』(Sems ‘grel skor gsum)だった。たとえばチャン地方北部の首領にあてた書簡のなかでドルポパは、自性(rang stong)の空が絶対的真実であるという観点を論じ、これらの三論が根本的なテキストであると述べている。

 なかでもとくにカルキン・プンダリーカのヴィマラプラバーが彼にとって重要だった。ドルポパはこう言及した。「カーラチャクラ・タントラの偉大なる論釈のなかに、了義の本質的な点を私は発見した」

 心に留めておくべきは、ドルポパはカーラチャクラの究竟次第の修練である六支ヨーガのすさまじい実践者であり、彼の教義の形成には経典、とくにカーラチャクラ関連の経典が基礎となっているものの、彼自身の瞑想体験が決定的な役割をはたしているのである。

 実際ジョージ・タナベが最近日本の高僧明恵の研究のなかで強調するように、「仏教徒は長い間、瞑想と修行の第一の体験(体験が第一なのだが)が重要だと主張してきた。

 ドルポパはあきらかに、シャンバラの国では理解されたが、チベットでは理解されていないブッダのメッセージの了義に関する深い洞察を体験していると感じた。第1章で述べたように、ドルポパは晩の瞑想中に実際にシャンバラへ行ったと主張した。

 翌朝ドルポパはシャンバラの見取り図、宇宙との関係、そしてカーラチャクラ・タントラの秘密の教えについての講義をした。直接シャンバラを見たあと、ドルポパはそれを賛美する頌を作った。そのなかでシャンバラとカイラシュ山が同時に存在することを発見したが、そのことはインド、チベット両者の学者も知らなかったことだ。

 個人的な瞑想のアドバイスを弟子らに与えるとき、ドルポパ自身が発見した特別な知識を伝えた。彼は、シャンバラでは多くの人が六支ヨーガの瞑想から立ち上る経験を理解することができるが、チベットでは彼をのぞきだれも理解していないと強調した。そして彼の覚醒はカルキン帝の慈悲によるものだと言った。

 ドルポパは弟子への教戒のなかでつぎのような頌をうたった。

 

<もし私が率直に話したなら、他人はそれを好まない。もし他人が言ったことを私がしゃべったら、それは弟子たちをだますことになる。

 このご時勢、師であることはむつかしい。そうであるなら、私はだからこそ率直にあなたたちに話そう。

 北方のシャンバラにカルキン帝はいらっしゃいます。カラーパ(Kalapa)のダルマ(法)の王宮で、多くの住民は体験を理解する。雪の国チベットでは、私だけが体験を理解している>

 

 また別の弟子に宛ててドルポパはつぎのように書いた。

 

<このごろというもの、専門家として知られる多くの人々は、すばらしい瞑想をし、高い理解を得たと主張し、偉大なる成就者だと自負するが、この方法については気づかない。私はそれをカルキン帝の慈悲によって発見することができた>

 

 六支ヨーガの瞑想における体験、シャンバラの国土およびカルキン帝とのヴィジョンにおける接触、そして彼らの特別な祝福、これらがいっしょになって彼の理論につながるインスピレーションを得ることができた。

 しかしこうも言うことができるだろう。ドルポパの教えのなかに結実したものは、何世紀にもわたってチベットの仏教の伝統のなかに存在していたのだと。

 前章で少し触れたように、ツェン・カウォチェやユモワは初期のチベットの師だが、その見解はドルポパの理論の先駆的存在だった。

 ドルポパの同時代人、たとえばカルマ派3世ランジュン・ドルジェが述べたことは非常に興味深い。ランジュン・ドルジェはおそらくドルポパの影響を受けていた。他性空の最初の支持者であったかもしれない。16世紀のサキャ派高僧マントゥ・ルドゥプ・ギャンツォ(Mangto Ludrup Gyantso)はドルポパとランジュン・ドルジェの面会に関しつぎのように述べている。

 

<師(ドルポパ)はカルマ・ランジュン・ドルジェとお会いになった。そして師が自性(rang stong)の空の哲学体系を作られたので、カルマパは将来他性の空の支持者になるだろうと予言した。思うに、他性空の伝統を最初に打ち立てたのはカルマ・ランジュン・ドルジェである。一切智者の師(ドルポパ)はチョナン寺でそれをお受けになった>

 

 ターラナータによるとこの面会はドルポパが29歳か30歳のときのことらしい。1322年、チョナンに行ってヨンデン・ギャンツォと会う少し前のことである。彼はつぎのように描く。

 

<それからドルポパはラサ、ツルプなどへ行った。彼は法王ランジュンと仏法について論じた。ランジュンはドルポパに対し経典による理論づけは示せなかったが、いわば千里眼を持ち、つぎのように予言した。「あなたはまもなく見識、実践、そして法のことば(chos skad)を持つことになるだろう。それはいまのことばよりもっといいものになるだろう」>

 

 ターラナータは直接カルマパの予言を引用しているが、ドルポパの他性空の源泉としてカルマパを描いてはいない。残念ながらこの面会についてはどちらの自伝にも出てこない。しかしシトゥ・パンチェン・チューギ・ジュンネ(Situ Panchen Chogyi Jungney 1700-1774)が書いたカルマ・カムツァン(Karma Kamtsang)の法統の歴史には記述がある。そのなかでドルポパは自性の空が真実であると考えている。年代記を参考に考えると、このふたりの大師の面会は1320年と1324年のあいだのいずれかである。

 

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