他性空の変遷

サイラス・スターンズ著 編訳 宮本神酒男

2 ドルポパと他性空(3)

 
1322年、30歳になるまで、ドルポパはその人生のほとんどをサキャ派の伝統に従って、仏典や仏教哲学の研究、実践に費やしてきた。それまでの十年間、サキャ寺で研究し、教えてきたのだ。たしかなことは、ドルポパはサキャ・パンディタ・クンガ・ギャルツェン(Sakya Pandita Kunga Gyaltsen)の著作、たとえば『三律儀注』(sDom gsum rab dbye)を吟味し、マスターしたことである。これらはサキャ派の学者や修行者にとって基本となるものだった。

 『三律儀注』のような賛否両論の著作を書くことになった動機についてのサキャ・パンディタの言説と、ドルポパが動機について語ったことの類似性は驚くべきことだ。しかもその結論はまったく正反対だった。

 『第四集結』のあとがきには、ドルポパのサキャ・パンディタへの親近性、その情趣へのシンパシーがよくあらわれている。このようにドルポパは『三律儀注』から対句を抽出し、またサキャ・パンディタの隠喩句を数ページにもわたって繰り返している。

 サキャ・パンディタの詩の骨子というのは、どれだけの宗派の伝統があろうとも、もし本物の典拠がなければ、「死者のように」それらには価値がない、ということだ。ドルポパはサキャ・パンディタの対句を出発点として用い、それを繰り返すことによって関連する多くの問題箇所を示した。

 たとえば無数の退廃するトレータ・ユガ(Tretayuga)の教えがあっても、もし完全なるクリタ・ユガ(Krtayuga)がなければ、「死者のように」それらには価値がない、と彼は主張する。

 このような調子でドルポパは、遍計の性(parikalpita, kun brtags)にたいする円成の性(parinispanna, yongs grub)、相対性にたいする絶対性、他性空にたいする自性空というように、対比させている。

 これらサキャ・パンディタからの引用はそれぞれ目的があってのことだった。それらはサキャ・パンディタのテーマや主張を思い起こさせた。『第四結集』の編纂をドルポパに求めたのは、ほかでもない、サキャ・パンディタの子孫であるラマ・ダンパ・ソナム・ギャルツェン(Lama Dampa Sonam Gyaltsen)だった。

 チャン地方の首領に教義の説明をするために送った『解釈簡要』(gShag ‘byed bsdus pa)の末尾に、ドルポパは明確に動機と意見を記している。それは精神的にも、文字通りにも、情報を含んだ証言である。

 

<真実の本性の真上に錘を垂らすように、これらの調査はなされてきた。そしてそれは偏見、えこひいき、僭越などの不浄に毒されることもない。というのは、私は一切智者ブッダ、そして第十レベルの至尊の証人となったからである。至尊とは、三種族の主、ヴァジュラガルバ(Vajragarbha)、マイトレーヤナータ(Maitreyanatha)、(哲学体系の)偉大なる創始者、たとえば高貴なるアサンガ、偉大なるバラモン、サラハ、偉大なるパンディタ、ナーローパなどである。

私は誇張や退廃を避けてきた。そして偉大なる至尊の意図を考えながら書いてきた。

 つぎのように言われるかもしれない。「至尊の考えを理解するなど傲慢である。しかしチベットのほかの大師の考えに賛成できないのは、それをあなたは理解していないということなのではないか」と。

 これは歩むべき道ではない。理解不足を招くのは、知性が劣っているからである。すばらしい師の口伝がないからである。研究が、経験が、瞑想の悟りが足りない。プライドと驕慢にあふれ、推論から真実か間違いかを決め、しゃべりすぎてしまう、などなど。

 しかし私は偉大なる仏典の伝統を学んできた。そしてインドやチベットの深遠なる口伝の修行に取り組んできた。こうして真正なる経験と覚醒が起こってくるのである。

 偉大なる根本タントラ、栄えあるカラーパの口伝、第十レベルにおけるカルキン帝の尋常ならざる心からのアドバイスの了義と出会う入り口で、私はいままで発見されなかった、悟られなかった、ほとんどのひとりよがりの学者や修行者、秘密のマントラを持するものの傲慢な者たちに理解されなかった本質が見えるようになった。

 内側から悟りを得て、一点の疑いのない確信を抱いたので、経験と理解をもつ偉大なる修行者だけでなく、秘密のマントラも持する傲慢な人々も、ブッダそのひとも、私を元の場所に追い返すことはできない。

 あるいはこう言われるかもしれない。「その確信はいい加減な、あやふやな瞑想から生まれたものかもしれない。つまり考え違いだ。それを証明する仏典上の引用などありえない」と。

 しかし証拠に欠けるなんていうことはない。論理的かつ秘教的な教戒のほか、多数の明確な引用がある。これは第十二、あるいは第十の精神的レベルのものである。ナーガールジュナ、その精神的息子たち(法を継ぐ者たち)や偉大なるパンディタ、ナーローパなどの悟りを得た専門家からの引用なのである。

 それについては、ここではこれ以上述べないが、必要とあればあとで詳しく述べたい。

 これらのなかでいくつかの点は例外的であり、チベットで知られてきた考え方とはあわないこともあるだろう。以前の哲学体系に慣れてしまっているため、それは当たり前のようになり、チベットの多くの人はその伝統を支持するようになった。それゆえ旧態依然の哲学は、堅固であったり不安定であったりするものの、違いに気づかず支持していたりするものだ。どうかバイアスのかかっていない目で、ブッダや菩薩の経典をよく見て、それらを検証しよう>

 

 これらが明快に示すように、ドルポパの理論には反対者がきわめて多かった。彼はほとんどの人が了義の教えに心を閉ざしていると感じていた。彼はしばしば同時代の確立された伝統における推論と偏見について述べている。これが彼の考えが広がるのを妨げる要因だと考えていた。彼は偏見の裁判に身をさらしているようなものだった。それゆえ彼の時代に反対した証言が何一つ残っていないのは奇妙なことである。おそらくドルポパの死まで表立って反対を表明することがなかったからだろう。

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