他性空の変遷

サイラス・スターンズ著 編訳 宮本神酒男

 

3 ドルポパ以降(1)

 ドルポパは14世紀のチベットのいかなる学者にも負けない手ごわい学者たちに囲まれていた。彼のチョナン派におけるもっとも影響力のある後継ぎは、弟子のなかでも長老格のニャウン・クンガ・ベル、マティ・パンチェン・ジャムヤン・ロドゥ、そして偉大なる座主チョレー・ナムギェルだった。ニャウンとマティの主要の著作は現存し、教義上の問題に迫る核心的な疑義にこたえるドルポパにそれらは従っている。とくにニャウンの教えは論争や否定的な反応を引き起こした。

 もっともよく知られ、影響力のあった初期のチョナン派の敵対者は、サキャ派の学者レンダワ・ショヌ・ロドゥ(Rendawa Zhonu Lodro 1348-1413)だった。学術的な観点から見た場合、レンダワはチベットにおいて中観哲学のプラーサンギカ(帰謬論証派)を確立した学者として知られる。彼は偉大なるツォンカパ・ロサン・タクパ(Tsongkapa Lozang Trakpa 1357-1419)のもっとも重要な師となった。しかしチョナン派から見れば、レンダワは、ドルポパによって広まった了義(ニータールタ nitartha, nges don)に対する悪意に満ちた敵対者だった。

 たとえば、ドルポパの最後のことばに帰せられ、伝記にも加えられた、しかし実際ははるか後代にチョナン派信者によって書かれた偽の予言のなかで、レンダワは激しく非難されている。彼は虚無的な見方(med par lta ba)を広める悪魔として描かれた。

 さらにレンダワは仏性を根本的な基体とすることに反駁し、六支ヨーガを究極的な道とすることを誹謗し、穢れを除けば根本的な果が得られるという見方を否定した。

 彼はまたカーラチャクラ・ムーラ・タントラが、他のスートラやタントラのように「如是我聞(われ、かくのごとく聞けり)」で始まっていないとして、非難し、簡約版カーラチャクラ・タントラもさまざまな点をとりあげて批判した。

 そしてついにレンダワはヴィマラプラバー(カーラチャクラ・タントラの論釈)の経文をかきあつめ、川に投げ捨てたという。

 これらは真剣な申し立てもあったが、公正にみれば、ヒステリーになりすぎている面があった。レンダワの自伝が述べるように、彼は、カーラチャクラ・タントラは仏法ではないと主張したことで知られていた。しかしそれは正確ではない。カーラチャクラを精読したとき、非―仏教的(chos min)として退けたわけではなかった。『珠玉鬘』(Nor bu’i phreng ba)の末尾でレンダワ自身があきらかにしたように、カーラチャクラ・タントラをたんに批判したのではなかった。

 

<(カーラチャクラが)高貴なる人(ブッダ)によって書かれたかどうかはともかく、それがすぐれた説明をしていることは容易にわかる。それゆえわたしは「これは解脱を願う人々のための入り口ではない」などと言うつもりはないのだ>

 

 レンダワの論点はカーラチャクラ・タントラ自体の内容ではなく、字義どおり(sgra ji bzhin pa)に解釈し実践されていることに対し、『珠玉鬘へのわが解答』(Nor bu’i phreng ba’i rang lan)のなかであきらかにしているように、自身の初期の疑義からカーラチャクラを擁護しているのである。

 

<今日、氷雪の国の傲慢な学者たちは、カーラチャクラとその論書の字義どおりの解釈に躍起になっている。その深奥の意味は、内包されたことばによってしか読み解けないのであるが。

 顕密の諸経典と矛盾する見解が広まっているのを見て、曲がった棒を伸ばすように、わたしは反論し、解釈してきた>

 

 レンダワはたしかにチベットにおけるカーラチャクラの伝統に対し批判的ということで有名だった、あるいは悪名高かった。しかし当初彼はドルポパの偉大なる弟子たち、たとえばニャウン・クンガ・ベルやマティ・パンチェンなどとともに学び、チョナン派の哲学体系をかなり気に入っていたはずなのだ。それから彼はチョナン派の師たちが教義の基礎としてきた経典を徹底的に検証しはじめた。すなわちカーラチャクラ・タントラ(時輪経)、ランカーヴァターラ・スートラ(楞伽経)、ウッタラタントラ、ダルマダートゥ・ストートラ(法界頌)などである。

 彼はこれらの経典を三度読み、分析した。一度目の読了後、彼はチョナン派のとらえ方は正しいと考えた。二度目の読了後、それが正しいかどうか不安になった。三度目の読了後、チョナン派の解釈は間違いだという確信に至った。

 そしてレンダワはサキャへ行き、師のひとり座主サンギェ・ペルに会い、チョナン派の教義は誤謬であると報告した。レンダワはあきらかにチョナン派の伝統を壊し、カーラチャクラ・タントラを読んで感じた矛盾を表にさらし、疑義を呈することを使命だと感じていた。

 まずレンダワは自分が決めたことを師のニャウンに伝えた。ニャウンはこのレンダワの考えを聞いて非常に不愉快になった。にもかかわらず、ニャウンは偉大なる知性の持ち主であり、とりわけ理知をたくわえていたので、レンダワが論書や経典からの引用を示せばニャウンも賛同してくれるだろうと考えた。また、もしニャウンが転向すれば、チョナン派のすべての学者が考えを改めるだろうと確信した。ニャウンはたしかにドルポパの伝統の代表的な後継者だった。

 しかしながらレンダワがニャウンと話し合うためツェチェン寺へ行くと、この老いた師は遠まわしに会いたくない旨を伝えてきたため、レンダワは切り出し口が見つけられなくなった。仕方なく彼はサキャに戻り、有名なカーラチャクラ批判の著作『珠玉鬘』を著わした。

 サキャ寺で行われたドゥン・シトクパ(Drung Zhitokpa)主催の大集会で、レンダワはカーラチャクラ・タントラの矛盾に関し、カルマパ・グンシュン(Karmapa Gonzhon)という僧と討論した。そのあと彼はチョナン寺に招かれ、仏性について討論した。これらのことすべては、ニャウンが逝去する1379年以前に起こったことである。

 レンダワの伝記によれば、多くのチョナン派僧を転向させ、多くの僧に疑いを抱かせ、多くの僧にチョナン派に加わるのを阻止することに成功したという。つまり、ドルポパ死後50年以内に、チョナン派の哲学体系に対する強烈な反動を与えることができたようなのである。

 それにもかかわらず、レンダワの態度は後世の史書が描くようには確固たるものではなかった。後半生においてレンダワはカンブリー(Kangbuley)の隠棲所で半隠棲生活を送ったが、そこで彼は『輝かしいカーラチャクラの了義を照らす宝灯』(dPal dus kyi ‘khor lo’i nges don gsal bar byed pa rin po che’i sgron me)を著わした。それは彼の初期の代表的な二つの著作とは異なっていた。二つのうち最初の著作は30歳以前に書かれたものだった。それらと比べこの魅力的な著作はカーラチャクラの瞑想実践を徹底的かつ積極的に解析したものだった。

 この著作はあきらかに、他者によってなされた解釈の間違いを正しながら、カーラチャクラの教えの本質をあぶりだす試みだった。上述の歴史的なできごとや、チョナン派の敵対者、カーラチャクラ批判者としてのレンダワの名声に光をあてると、最後の著作中のつぎの一節は驚き以外の何物でもない。

 

<カーラチャクラ・タントラの考え方によると、真理には二つの種類がある。無知の妄想から起こる汚れという現象は、相対的真理である。というのもそれらは現実の把握を曖昧にし、苦悩を起こすからだ。それは完全な智慧ではなく、自性の空(rang stong)であり、虚無の空(chad stong)であり、無性の空(bems stong)なのである。

 あらゆる心の原初の状態、ならびに自ら輝く光は、絶対的真理である。理性による解釈に抵抗することができることは、実証済みである。そしてそれは非―概念的な把握の対象であるのは、絶対的である。またそれは、汚れがないならば、他性(gzhan stong)の空である。それは虚無の空(chad stong)でも無性の空(bems stong)でもない、というのもそれは自己認識的な本能的覚醒を経験するのだから。

 そう考えると、自性の空(rang stong)は極端な虚無に陥る、それゆえその悟りは解脱への完全な道とはいえない。ただ他性の空(gzhan stong)だけが、心の真実の性だけが、輝かしい光だけが、瞑想を通じた、特別な自己認識の覚醒を通じた内発的な目覚めだけが、完全な道として受け入れられるのである>

 

 レンダワは本当にカーラチャクラの了義はチョナン派の他性空なしには理解できないという結論に至ったのだろうか。この重要な著作の他の箇所ではまだ、永遠不滅の絶対的真実という考え方を、ヴェーダ教典の教義に等しいとして、強く非難しているのである。

 レンダワの著作を注意深く吟味しないかぎり、彼があきらかにカーラチャクラの了義という文脈のなかの他性空の価値を認めるようになったか、その結論に至るのはむつかしい。彼はこの時点でも、仏性の永遠不滅性など多くの面では賛同していないのである。

 いずれにしろ、後世のチベットの学者たちはレンダワをチョナン派およびカーラチャクラの敵対者とみなしつづけてきた。その最後の著作を見るかぎり、その極に立っているのだが。


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