他性空の変遷

サイラス・スターンズ著 編訳 宮本神酒男

 

3 ドルポパ以降(2)

 14世紀後半、チョナン派に対する教義上の逆風にも負けず、ドルポパの哲学体系は、ツァン地方ではなお力強く生き残っていた。ほかの勢力が優勢になるのはそのあとのことである。

のち、ターラナータが述べるには、『大法鼓経』(マハー・ベーリー・スートラ Mahaberi sutra, rNga bo che mdo)中に見出されるドルポパに関する予言は正しく、チベット中にドルポパが広めた六支ヨーガの実践や、仏性、至上タントラ、仏性を宣言した三転法輪の顕教の教えは80年以上にもわたって学堂などの教育機関に強く残っていた。

 このあと、これらの教えは以前ほどの影響力を持たなくなった。というのも、未了義(ネーヤールタ neyartha, drang don)にとりつかれた人々、あるいは勝義を唱える人々、名声や権力があり、多数の弟子を率いた人々の出現があったからだ。

 これは、ツォンカパによって確立されたゲルク派の勃興にたいするネガティブな見方といえるかもしれない。しかしツォンカパの弟子、ケドゥプ・ゲレク・バルサン(Khedrup Gelek Balzang 1385-1438)とギャルツァブ・ダルマ・リンチェン(Gyaltsab Darma Rinchen)は15世紀、チョナン派を攻撃する。

 しかし、とターラナータはつづける。彼の時代でさえ、六支ヨーガの実践や仏性の教えなどは生きながらえているではないか、と。

 チョナン派から見れば、他性空の系譜や教えに関する情報は、ドルポパの直弟子の時代からチョナン・クンガ・ドルチョク(Jonang Kuga Drolchok 1507-1566)の時代まで、きわめて少ない。実際、14世紀後半からターラナータが伝統を復活させる17世紀までの間、ドルポパによって提起された問題を扱うチョナン派の大師たちが書き残したものは何一つ残っていないのである。ほぼ150年間、チョナン派の著作で残っているのはクンガ・ドルチョクの数編にすぎない。しかもそれらは、他性空について一言も触れていないのである。

 それゆえ他宗派の論書のなかにチョナン派のことが出てくるまで、二百年以上待たなければならなかった。それらは敵愾心にあふれていたが、唯一の例外はサキャ派の大師セルドク・パンチェン・シャキャ・チョクデン(Serdok Panchen Shakya Chokden)だった。現在知りえる情報からすると、15世紀から16世紀にかけ、シャキャ・チョクデンはもっとも影響力のある他性空の提唱者だった。このことは、大乗仏教と金剛乗仏教の教義の論書『21の深奥なる意味』というターラナータが著した魅力的な論書によって、はじめてわかった。

 18世紀後半、宗教史家のゲルク派僧トゥカン・ロサン・チューキ・ニマ(Thukan Lozang Chogyi Nyima)は、悪意をこめてシャキャ・チョクデンを登場させるまで、ドルポパ以降の直弟子の他性空大師らについては一切触れなかった。シャキャ・チョクデンが他性空の重要な提唱者であったのは、驚くべきことだった。というのも、ライバルであったゴーラム・ソナム・センゲ(Goram Sonam Senge)をのぞくと、彼はサキャ派でもっとも偉大な学者だったからだ。

 いったいどこでシャキャ・チョクデンは他性空の教えを習得したのだろうか。そして彼はどうやってこの教えを護持しながら、サキャ派大師という確たる地位にいつづけることができたのだろうか。シャキャ・チョクデンがどこから他性空を学んだかに関し、定説のようなものはない。

 彼の師のひとりはサキャ派大師ロンドゥン・シェジャ・クンリク(Rongdon Sheja Kunrik 1367-1449)だった。現代チベットの学者ドントク・リンポチェ(Dhongthog Rinpoche)は、最近修復されたシャキャ・チョクデンの著作を調べ、シャキャ・チョクデンは師ロンドゥンに従ってひそかに他性空を信仰し、ツォンカパの解釈の伝統を否定したのではないかと考えた。

 いまそれについて検証することはできないが、ドントク・リンポチェの考え方には一理あるだろう。たとえば、ロンドゥンによって編纂されたドルポパへの賛歌が残っている。すくなくともサキャ派の師たちはドルポパと彼の哲学に対して、敬意を抱いていたのはまちがいない。

 カギュ派においても、第7代カルマパ、チュータク・ギャンツォ(Chotrak Gyantso)はシャキャ・チョクデンに他性空を受け入れるよう促したという。前述のように、第3代カルマパ、ランジュン・ドルジェはドルポパが他性空の教義を発展させるにおいて、多大な影響を与えていた。

 現段階では、他性空がどのようにカギュ派、とくにカルマ・カムツァン派(Karma Kamtsang)の多くの僧に受け入れられたのか、はっきりとはわからない。おそらく第3代カルマパの時代からすでにこの系統のなかでは大きな勢力を成していたのだろう。

 チョナン・クンガ・ドルチョクによって書かれた、シャキャ・チョクデンの生涯に関するもっとも初期の評伝によると、彼は第7代カルマパ、チュータク・ギャンツォに二度会う機会があった。これは1502年のことと思われる。より重要なのは、二度目のほうである。当時チベットでもっとも力を持っていた地方首領ドンユ・ドルジェ(Donyo Dorje)のリンプン(Rinpung)の宮廷でのことだった。

 カギュ派の歴史家バウォ・ツクラ・テンワ(Bawo Tsukla Trengwa)が1545年と1564年の間に記した記事によると、リンプンに到着したカルマパを歓迎するために、全ツァン地方より、2万人から3万人の人々が集まったという。

 シャキャ・チョクデンはカルマパとともにおよそ一ヶ月すごした。この時期彼はカギュ派高僧からこの上ない深遠な教えを受けた。それによって彼は執着を断ち、禅定を修し、ついにカルマパを精神的な師として受け入れた。

 後世のカギュ派の詳細な歴史書によると、カルマパはシャキャ・チョクデンに信じがたいほどの名誉を与え、講堂ではおなじ高さの法座に坐らせ、一ヶ月の間、深遠なるテーマについて論じ合ったという。このときカルマパは、シャキャ・チョクデンと自分はおなじ心(thugs rgyud gcig pa)を持っていると語った。

 その著作のすぐあとには、カルマパと同様シャキャ・チョクデンも、大乗仏教の二つの宗派の究極的な見方は、他者から見た相対的な現象の空としての、絶対的な他性空であると主張した、という一節がある。

 シャキャ・チョクデンはすでに73歳か74歳だったが、このことによって彼は他性空を受け入れたと考えられる。あるいは、彼はおそらく他性空を長い間護持していて、カルマパと長い間論じ合うことによって、考え方を変えたのではなく、それまでの考え方をより確かな、実りあるものとしたのかもしれない。そうでなければ、彼はずっと自性の空について疑問に感じながらも他性空については書かず、最後の五年間にようやく他性空についてまとめたということになってしまう。

 シャキャ・チョクデンの著作は17世紀半ば、禁書処分を受ける。政治権力を得たゲルク派によってシャキャ・チョクデンの著書は印刷が禁じられ、刷られたものもすべてが差し押さえられた。最近になってたまたまブータンでそれらが発見され、全集として出版された。この禁書処分はずっとのちまでサキャ派の教義の発展に影響を与えつづけてきたのである。

 シャキャ・チョクデンの著作の多くのテーマは、教義上の問題で分極化した宗派間の妥協と統合である。他性空説の重要性について両者とも認めているにもかかわらず、シャキャ・チョクデンの他性空とドルポパの他性空とは違いがあった。

ある小論で、シャキャ・チョクデンはドルポパとプトゥンを比較する。彼にとっては両者ともサキャ派であると述べ、おどろくべき結論に至る。すなわち、自性の空と他性の空において、チョナン派とシャル派との間に見解の不一致はないというのだ。というのも、タントラの了義という文脈において、プトゥンの哲学もまた他性空説を含んでいるというのである。

 カルマ・ティンレーパ(Karma Trinlepa 1456-1539)によれば、統合というテーマ、あるいは二つの宗派の見解に矛盾はないとする主張は、ティンレーパの師である第7代カルマパ、チュータク・ギャンツォの方法でもあった。そのことをよく示すのが、受け取った問いに対するカルマ・ティンレーパの答えの頌だった。のち、ベーロ・ツェワン・クンキャブ(Belo Tsewang Kunkyab)に宛てた韻文の小論は、「自性の空と他性の空のあいだに矛盾はなし」という第7代カルマパの見解について述べたものだった。

 何人もの現代の学者が喚起するように、第8代カルマパ、ミキュ・ドルジェ(Migyo Dorje 1507-1554)もまた、他性空について書いている。ただし、後半生において彼は考えを改め、逆にドルポパやシャキャ・チョクデンに反駁する文を書くようになるの。

 自性の空と他性の空を調和させようとする興味深い論書が、もうひとつ現れた。16世紀から17世紀にかけてのヨーガ行者、ションチェン・デンペイ・ギャルツェン(Shongchen Denpey Gyaltsen)である。彼は、ドルポパの転生であると主張した、偉大なる成就者タントン・ギャルポ(Tangtong Gyalpo 1361-1485)からの口伝の教えである「断」(チュー gChod)に関する論書の編集者である。ションチェンは大中観の哲学体系の精髄を、頌にして示した。

 他性空やその他の問題点に関するチョナン派の教義に対するサキャ派の位置は、15世紀後半から16世紀末にかけて、つねに複雑だった。シャキャ・チョクデンとゴーラムパをのぞくと、この時期にサキャ派大師によってこのテーマで書かれたものは残っていない。とはいえ数多くの伝記にはそれに触れた箇所があり、マイナーな著作のなかには当時の状況を示すものもある。

 ゴールム・クンガ・レクパ(Gorum Kunga Lekpa)の伝記からは重要な情報を得ることができる。ゴールムは、チョナン寺の長年にわたる座主でありながら、サキャ派の道果(ラムデ Lam ‘bras)の教えの主唱者でもあった。

 偉大なるツァルチェン・ロセル・ギャンツォ(Tsarchen Losel Gyantso)は、16世紀において、道果に関しもっともすぐれた大師だった。またゴールムパから多くの教えを受けていた。

 チョナン・クンガ・ドルチョクは、サキャ派の系統において、釈義と実践において代表する僧だった。

 ジャムヤン・キェンツェ・ワンチュク(Jamyang Khyentse Wangchuk)は、ゴールムパ、ツァルチェン、クンガ・ドルチョクとともに学んだ。


⇒ NEXT