他性空の変遷
サイラス・スターンズ著 編訳 宮本神酒男
3 ドルポパ以降(3)
ゴールムパの伝記は15世紀後半から16世紀なかばのチョナン寺の状況を知る有力な手がかりとなる。この著作からわかるのは、チョナン派はまだまだ勢いがあり、ドルポパの主著『了義の海』や『第四集結』の根本テキスト及び広釈、『仏法総釈』などがチョナン寺で伝えられ、教えられていた。
1516年、ゴールムパはチョナン寺の法座に就き、1527年までその地位を守った。この時期、そしてつづく自ら選んだ後継者ナムカ・バルサン(Namkha Balzang)が法座に就いた1527年から1543年までの間、ドルポパの了義の教えは腐敗することなく守られた。ゴールムパはチョナン派の特別な教えだけでなく、サキャ派の教え、たとえばラムデ(道果)なども教えた。
これらの日々、ゴールムパは、じつはそう珍しいわけではないが、チョナン派とサキャ派の両方の実践と修習をおこなっていた。その方向性に障害などなかった。チョナン派の信者はサキャ派の一部とみなされていたのだ。ただ六支ヨーガの実践とドルポパ伝来の教えに力点を置いていると考えられたのである。
チョナン・クンガ・ドルチョクはたしかに16世紀において、もっともよく知られたチョナン派のリーダーであり、その体制はもっとも長くつづいた。クンガ・ドルチョクの厖大な自伝や『チョナン派百の教戒』(Jo nang khrid brgya)、その他雑多な文を読むと、三つのことがあきらかになる。
彼はサキャ派の申し子だった。彼はサキャ派の実践と教えを護持し、リメ(ris med 脱・宗派)を完全に体現していた。そして彼がチョナン派に忠実であったという証拠はまったくなく、彼が教えた人々もそうだった。
クンガ・ドルチョクにとって、もっとも重要な柱は三つあった。それはサキャ派のラムデ、シャンパ・カギュ派の秘教的な教え、そしてチョナン派の六支ヨーガだった。彼は生涯を通じてこの三つの教えに帰依していた。
注目すべきは、ドルポパの他性空の教えを積極的に広めようという姿勢が、クンガ・ドルチョクにはまったくといっていいほど、なかったことである。彼はどれかひとつの教えを深めるよりも、辛抱強くこれらの系統の解釈や実践を試みる雰囲気作りのほうに興味を持っていたようである。おそらく、これこそチョナン派が見出した新しい方向性なのである。
チョナン派の見解に激しく敵対したゲルク派の影響が増すにしたがい、サキャ派の主流は、実践においてチョナン派とほとんど違いがなかったにもかかわらず、チョナン派の教義から距離を置くようになった。
15、6世紀、シャキャ・チョクデンやクンガ・ドルチョクの著作を読んでも、支持者が激増しつつあったツォンカパの特異な見解の影響をサキャ派の代表的な人々が受け始めていたことがはっきりとわかる。
このことは広範囲にわたって起こっていたかもしれない。というのは、レンダワのあとの時代、サキャ派の学者たちはドルポパの見解を否定し、おそらくまったく逆の方向に向かい、レンダワの弟子ツォンカパによって建てられた、新しい宗派ゲルク派と手を結んだのである。ツォンカパの見解はもともとの古代のサキャ派大師たちの教えとは異なっていたのだが。
シャキャ・チョクデンとクンガ・ドルチョクは、後期に勃興したサキャ派(phyis byung sa skya pa)の潮流と、新旧のサキャ派(sa skya pa gsar rnying)間の、とくにラムデの教えに関する軋轢のことに言及している。彼らは、これはもともとのサキャ派大師の教えの著しい堕落とみなしていた。彼らの見解は、チョナン派のそれと十分折り合えるものと考えられていた。
クンガ・ドルチョクは、新サキャ派の支持者は羊の皮を被った狼のように、本当のサキャ派の教えを破壊していると思った。すなわち、サキャ派のふりをしてじつはゲルク派なのではないかと疑ったのだ。
一方でサキャ派信徒のなかには他性空に惹かれる者もあった。当時、チベットの精神世界で圧倒的に支配していたゲルク派に対する反発もあっただろう。
もし宗派を与えられたなら、その宗派独自の教義に集中する、並外れた才能をクンガ・ドルチョクは持っていた。彼自身はチョナン派の代表的な存在であったにもかかわらず、特定の見解に与することはなかった。
もし彼がサキャ派のラムデについて書くなら、さまざまな異なるアプローチによる見解を区別しただろう。またチョナン派の六支ヨーガについて論じるとき、ドルポパの解釈をもっとも正統なものとしただろう。後者において、彼は彼自身を三世(過去、現在、未来)のブッダの体現者であるドルポパになぞらえ、もういちど法座にもどり、その伝統を守るだろうと述べている。
<堂々とした三人の大師の肉体的体現者として、
三世の母なるものの守護者として、
壮麗なるドルポパという名のシェラブ・ギェルツェンは、
三世のブッダではないのか。
師の法座に座り
師の教えを守り
私はヨーガ行者ランドル、
ふたたび戻ってきた、ドルポからやってきたブッダではないのか>
またドルポパから伝わった教えを講じるとき、クンガ・ドルチョクはためらうことなく、この偉大なる先達の用語を使用した。
この時期、チョナン寺自体は盛況を呈していた。16世紀のサキャ派の偉大なタントラ大師と目されるツァルチェン・ロセル・ギャンツォは、サキャ派のラムデと同様、ゴールムパに由来するチョナン派の六支ヨーガの教えを受けた。
1539年、ツァルチェンはチョナンを訪ね、ドルポパがそこで最初に経験したことに思いを寄せ、山の斜面の瞑想用の石小屋を見た。そこで瞑想の伝統がなお続いているのだと思うと、恐れ多い気持ちになった。
二年後、彼はふたたびチョナンを訪ね、年長の友人や師クンガ・ドルチョクにあたたかく迎えられた。当時サキャ派とチョナン派の間には、和やかな関係があったのだ。
今日にいたるまで、サキャ派ではその教戒のマニュアルがなお権威を持っているというジャムヤン・キェンツェ・ワンチュクは、若いときはゴールムパから、のちにはツァルチェンやクンガ・ドルチョクから学んだ。
とくにゴールムパからは、サキャ派のラムデやその他の秘教的な教えとともに、ドルポパの教えを受け取った。それから彼はツァルチェンの法の継承者となり、のちにはシャル寺の座主に就いた。
彼の自伝からはっきりわかるのは、キェンツェ・ワンチュクは、学問の勉強よりチョナン派・サキャ派両者の瞑想の実践に惹かれていたことである。
あるとき彼は、だれからも隔離された生活を送り、生起次第(bskyed rim)のためのナーロー・カチューマ(Naro Khachoma)、究竟次第(rdzogs rim)のための六支ヨーガを実践したいと考えた。驚くべきことは、キェンツェ・ワンチュクはシャル寺のプトゥンの法座にまで上りつめたことである。
ひとつエピソードがある。1550年、キェンツェ・ワンチュクはラルンにあるカギュ派寺院を訪ねた。彼は一日、学者たちが教義と実践について論じ合うのを見、だれかがドルポパは永遠の実体が存在する(rtag pa’i dngos po yod)と述べていた。それは仏性だった。だれも反駁しなかった。
キェンツェ・ワンチュクの考えでは、ドルポパは仏性が永遠であることを認めたが、彼にはそれが実体とは思えなかった。すべての著作のなかでドルポパは、空の本体は、自然に自ら輝く光(stong gzhi rang bzhin ‘od gsal ‘dus ma byas)となる。それらはむなしい論議では、証明も否定もされようがないので、だれも異論を唱えることができないと主張している。
ともかく、キェンツェ・ワンチュクは言う、プトゥンもおなじことを主張している、と。ふたたび言おう、偉大なる大師たちの間には、究極的に、一致しないということはないのだ、と。後世において彼らの教義を理解できない者たちが、間違った解釈をしてしまったのだ。
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