他性空の変遷
サイラス・スターンズ著 編訳 宮本神酒男
3 ドルポパ以降(4)
クンガ・ドルチョクの著作にはドルポパ哲学に関する記述はほとんど見られないが、クンガ・ドルチョクの転生であるターラナータが書いたものには、他性空やその関連の記述にあふれている。チョナン派史上、ドルポパとならび重要な人物といえば、ターラナータである。
ターラナータは16世紀後半から17世紀初頭にかけてほんの短期間、輝きをみせたチョナン派の、とりわけ他性空の復興の担い手だった。
クンガ・ドルチョクと同様、ターラナータはさまざまな宗派のタントラの教義を実践し、教えた。いわゆるリメ(ris med)、脱・宗派運動である。彼はまた、サンスクリット密教経典の最後の大訳経僧でもあった。
ターラナータはプトゥンの系統やチョナン派に敵対したゲルク派をも含むあらゆる正統派の仏教を重んじた。彼はまたクンガ・ドルチョクと同様、サキャ派のラムデ(道果)の実践やシャンパ・カギュ派の秘教的教えを好んだ。
またブッダによる深奥な教えとして、カーラチャクラの釈論や六支ヨーガの実践を推し進めた。彼の著作からはっきりとわかるのは、ドルポパこそ教義と実践において究極の権威であるという確信だった。
ターラナータの伝記によって、宗派のトップから見たチョナン派の状況がよくわかる。彼は責任をもってドルポパの洞察を聴衆に届け、この絶滅の危機に瀕した教えに至上の価値があることを伝えようとした。
たとえば1590年代のはじめ、ターラナータは六支ヨーガの教えがチョナンで講じられてから長い年月がたったことを感慨深く述べた。ドルポパの法を継いだチョレー・ナムギェル(Choley Namgyal)の教戒要綱がなおチョナンで使われ、六支ヨーガが教えられているが、それはドルポパから伝えられてきたにもかかわらず、ドルポパやその法統の息子たちの哲学体系を理解する者はほとんどいない。
もっと懸念されるのは、オルゲン・ゾンパ(Orgyan Dzongpa)らチョナン派の高僧がチョナン派の伝統にしたがって灌頂を与え、法を説いてきたにもかかわらず、その彼らがドルポパの強固な他性空の教えを批判し、反駁したことだった。他性空はブッダおよびボディサットヴァの秘密の教えであるのに。
結果として、不幸なことが数多く起こった。たとえターラナータ自身が他の宗派の体系を批判することを避けたとしても、間違った意見でもってさえドルポパの元来の見解を守る必要性を感じた。それはドルポパの法統にしたがった正確な解釈を確立するということだった。
1604年、十年間もチョナン派の本来の教えを復興するために尽力したあと、こんどはチャン地方とツァン地方のあいだの争いからターラナータのすべての著作が危機に瀕する事態となった。チョナン寺自体は敵の攻撃を受け、即座に壊滅的な被害を蒙った。
ドルポパの大ストゥーパで瞑想していたターラナータはすっかり落胆していた。彼のすべての努力が水泡に帰し、宗派が破壊されるのを目の当たりにしながら、惑わされた、のぼせ上がった人々によって起こされたもめごとから遠ざかり、禅定に入りたいものだと考えていた。
このときドルポパの幻影が現れ、いままでとおなじことをつづけよ、これまでの努力は無駄ではない、と勇気づけた。
つぎの夜、ターラナータがドルポパに祈りを捧げていると、こんどはボディサットヴァの幻影が現れ、四行連句で語りかけてきた。
これら一連のできごとのあと、ターラナータは他性空のなかにこめられたドルポパの真の意図を理解することができるようになった。そして彼の感じていた不確かさと疑問は一掃された。
彼はその手に鍵が置かれたように感じた。その鍵ですべてのブッダの教えの扉をあけることができるのだ。
おのれの覚醒を表現するために、ターラナータは他性空を説くもののなかでもっとも重要な『中観他性空荘厳』(gZhan stong dbu ma’i rgyan)という頌形式の著作と、その思想を説明するため本文から引用を抜き出した補助作を書き上げた。
彼の伝記にあるのと同じドルポパの幻影を描きながら、ターラナータはドルポパからいくつかの予言を受け取ったと述べている。そしてそのとき以来、彼は何度も、この世界で、あるいは夢の中でドルポパと会っている。
そしてターラナータは付け加える。
「私が一切智者ドルポパの見解に詳しく、その真の意図を理解できたのは、こうしたことがあったからだ」と。
生涯を通じてターラナータは、他性空に対する抵抗や反対にあってきた。たとえば、彼はンガムリン寺の座主でもあるチャン地方の首長に、あるいはトムパ・ラツェ(Trompa Lhatse)に集まった学者たちに、多大なエネルギーをそそいで他性空について説明しなければならなかった。
彼らは興味を持ちはしたが、講じた教えの本質や意味を本当に理解することはなかった。また学者たちが理解できないのは、彼らが他性空をチッタマートラ(Cittamatra 唯識派)と認識していたからだ。チッタマートラは、知覚された形象(sems tsam rnam rdzun pa 形象唯識)の価値を受け入れなかったのである。彼らは他性空とチッタマートラとの間に大いなる差異があることを知らなかった。
カギュ・シャマルパの高僧たちでさえ、1620年にターラナータと論じたとき、チョナン派の見解をまったくもって誤解していた。
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