他性空の変遷
サイラス・スターンズ著 編訳 宮本神酒男
3 ドルポパ以降(5)
1635年のターラナータ没後、後継者のクンガ・リンチェン・ギャンツォ(Kunga Rinchen Gyantso)は15年にわたってチョナン派を率いた。それから起こったさまざまなことはチョナン派の未来に決定的な役割を果たすのだが、そのことはまだ説明できなかった。西側のまとめたチベットの歴史書には通常、チョナン派への弾圧があり、1658年、チョナン寺はゲルク派に改宗したと書かれている。これは部分的にのみ正しい。
17世紀の政治状況は極端に複雑だった。チョナン派の来るべき災難に立ち向かっていたのは、中央チベットのゲルク派勢力の政治的優越に対し戦っていたツァン地方の支配者の精神的指導者でもあったターラナータだった。
何人かの現代の研究者はチョナン派の凋落に一役買ったとして、ターラナータを非難している。しかし以下の情報を吟味したとき、それはあてはまらないように思う。詳細はよくわからないが、これからもっとあきらかになっていくだろう。
1642年、ターラナータの没後七年、グシ・ハーン率いるモンゴル連合軍がツァン軍を破り、ダライラマ五世、ンガワン・ロサン・ギャンツォ(Gawang Lozang Gyantso 1617-1682)を全チベットの政治的最高位に就けた。伝記によれば、偉大なる五世はチョナン派の運命に自ら手をかけている。ジャムヤン・トゥルクなる人物に扇動されて、ゲルク派の講経院(シェタ bshad grwa)がチョナン寺近くのターラナータによって創建されたダクデン・タムチョ・リン寺(Dakden Tamcho Ling)に建てられた。
このように鉄虎の年(1650年)、寺院の宗派(grub mtha’)がチョナン派からゲルク派に替わったのである。このことはその時点では、勝利したゲルク派の権威によって、他性空の教義が禁止されたというふうにみなされたかもしれない。
1650年はまた、ターラナータの後継者クンガ・リンチェン・ギャンツォの在任期間の終了の年でもあった。彼は余生をサンガク・リウォ・デチェン(Sangak Riwo Dechen)の寺院で送ることになる。
もともとジャムヤン・トゥルクが駆り立てて、ダライラマ五世がダクデン・タムチョ・リンのチョナン派の領地に干渉するように仕向けたのだった。この人物はいったいだれなのか?
幸い、ダライラマ五世の伝記によって、人物像をあきらかにすることができる。ジャムヤン・トゥルクはハルハ・トゥシェイェトゥ(Khalha Tusheyetu)王の息子だった。なかなか興味深い展開である。ジャムヤン・トゥルクはモンゴル・ハルハ・トゥシェイェトゥ汗、ゴンポ・ドルジェの息子であり、エルケ・メルゲン汗(Erke Mergen Khan)の孫だった。
イェシェ・ドルジェやロサン・デンペイ・ギャルツェン(Lozang Denpey Gyaltsen 1635-1723)の名で知られるジャムヤン・トゥルクは、ダライラマ五世やパンチェンラマ一世ロサン・チューキ・ギャルツェン(Lozang Chogyi Gyaltsen 1567-1662)、国家認定の神託僧(la mo chos skyong)らによって、ターラナータそのひとの転生、初代ハルハ・ジェツン・タムパ(Jetsun Tampa)と認定された。
もっと興味深いのは、ジャムヤン・トゥルクはジャムヤンの転生ということである。つまりゲルク派僧院デプン寺の創建者、ジャムヤン・チュージェ(Jamyang choje 1357-1419)の生まれ変わり(sku skye)と信じられていたのだ。
はじめチュージェの転生とされ、そのあとターラナータの転生(yang srid)と目された。もちろんジャムヤン・チュージェとしての前半生は、ゲルク派、とくにツォンカパ自身とのより深い関係を示すため、強調したのかもしれない。
しかしながらジャムヤン・チュージェの死とターラナータの誕生との156年のギャップについては説明されず、ジャムヤン・トゥルク(ハルハ・ジェツン・タムパ)の転生の系譜上で、ターラナータの前任者であるクンガ・ドルチョクについて言及されることもなかった。
ジャムヤン・トゥルクがターラナータの転生とみなされたのには、あきらかに政治的意図があった。圧倒的地位を確立するため、ゲルク派はターラナータの転生者がチョナン派のリーダーとなる可能性を排除したのだ。チョナン派自体は、チョナン派からゲルク派への転向を促すこの偉大なる転生者がゲルク派の師として認定されることを受け入れなかったが、ゲルク派政府とモンゴル軍の支配下では、選択の余地はなかった。
ハルハ・ジェツン・タムパの伝記のなかに、ターラナータの転生と承認されたことの合理性についての記述がある。ターラナータが逝去する寸前、チョナン派の弟子やパトロンたちは、転生者がチョナン派の教義を広めてくれるよう祈った。この一節では、ターラナータはつぎのような返事をしている。
<われわれチョナン派の教義が大いに広まったことは、満足すべきこと。ガンデン(ゲルク派)の法の保護者の力添えによって、あるいはいままでの祈祷の力で、わたしは野蛮な辺境区でツォンカパの教えを広めるだろう>
厖大な宗教関連の著作のほか、ターラナータ自身の自伝を読めば、彼がいかにドルポパおよびチョナン派の特質である了義の教えに身を捧げていたか、容易に証拠を挙げることができるだろう。彼が上述のような発言をしたこと、またドルポパの独立した宗派を破壊したまさにその宗派に生まれ変わることを望むのは、およそありえないことである。この発言がターラナータの最後の日々について書かれた著作のなかに記述されていないのは、驚くべきことではない。
ターラナータのあやしい最後のことばに加え、秘密の自伝から引用された一節が、ターラナータがゲルク派に転生したいと願っていた証拠だとされた。ターラナータは若いとき幻影を見た。
<ヤムドゥク湖にありがたい雰囲気をもった男がいた。男はプトゥンだという。プトゥンは私の頭に黄色い帽子をのせ、「さあこれからはこの帽子をかぶりなさい」と言った。
これは本物の王冠だった。それゆえ今、長い耳垂れのついた黄色い帽子をかぶっているのだ>
プトゥン・リンチェン・ドゥプは、ゲルク派の法統、とくにカーラチャクラの伝承のもっとも重要な先達のひとりである。ターラナータの幻影の解釈にゲルク派の解釈は必要ないはずだった。ターラナータはプトゥンを非常に尊敬していたし、カーラチャクラの教えを受け取ってもいた。彼の自伝には、ほかにもインドやチベットの数多くの偉大なる師の名が記載されている。
プトゥンは早くから黄色い学者帽(pan zhwa ser po)をかぶり、のちそれがゲルク派のトレードマークとなった。しかしプトゥンおよびゲルク派の高僧たちは、黄色い儀礼用の帽子だけをかぶっていたのではない。ドルポパもまた黄色い帽子をかぶっていた。幻影のなかでターラナータが黄色い帽子をかぶったとしても、チョナン派の首領であることとなんら矛盾しないのである。
上述のように、サキャ派大師ジャムゴン・アメイ・シャプはドルポパ自身、晩年には他性空の見解を後悔していたと主張した。ゲルク派のトゥカン・ロサン・チューキ・ニマもまたシャキャ・チョクデンに関し、似た主張をした。
チョナン派の敵の最後の、そしてより効果的な策略は、政治権力を通じ、ターラナータの転生をゲルク派の上師として承認することだった。
いまや15歳の転生少年のために準備は整えられた。少年はモンゴルでダライラマ五世の弟子たちから厳格な教育を受けていた。そして偉大なる五世にはターラナータの寺院をゲルク派の中心に鞍替えすべく、ダクデンに学院を創建するよう要望が高まっていた。
1650年末、若いハルハ・ジェツンはタシルンポ寺へ行き、具足戒を受け、初代パンチェンラマから数多くの教えを受けた。
この時点でパンチェンラマはすぐダクデンへ行くよう請われた。あきらかにゲルク派への宗旨替えを完了させるためだった。
ダクデンで、パンチェンラマはゲルク派が取り入れた主要なタントラ仏教のために、数多くの灌頂儀式を行ない、宗派の儀礼に必要な経典を伝達した。また同じ訪問時にパンチェンラマはチョナン近辺の尼僧らに教えを講じた。
ハルハ・ジェツン自身が同時期にチョナンやダクデンを訪問しなかったのは、意味のあることである。彼がターラナータの転生であるということが受け入れられれば、訪問が期待されただろう。
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