他性空の変遷

サイラス・スターンズ著 編訳 宮本神酒男

3 ドルポパ以降(6)


 ダライラマ五世自身によれば、ターラナータの寺院タクテン・プンツォク・リンは1650年にゲルク派に宗旨替えした。しかし以前からこの寺院にいた僧はその考え方も修行法も変えなかった。それどころか新たにやってきた僧はチョナン派の本来の教えに向かうよう仕向けられた。

 ダライラマは金メッキをした真鍮にたとえた。チョナン派にゲルク派の薄板を貼ったようなものというわけだ。

 結果として、ゲルク派の上層部は彼らを他の寺院に体よく追い出した。そこでより厳しいゲルク派の規則に縛られることになるだろう。そして寺院にはガンデン・プンツォク・リンという新しい名が与えられた。1658年のことだった。

 このとき以来、中央チベット、西チベットでは、チョナン派は独立した宗派としては弾圧されるようになった。弾圧にもかかわらず、チョナン派流の他性空とカーラチャクラの教えはこれらの地域で教えられてきた。一方、チョナン派寺院が身を隠すことなく生き残ったのは、はるか東のアムドのザムタン寺を中心とする地域だけだった。

 チョナン派の他性空とカーラチャクラの教えは現在にいたるまで伝承され、実践されてきた。

 しかしチベット仏教の主流として残っているこれらの教えは、飛び地であるアムドのザムタン寺のチョナン派の僧たちではなく、東チベット・カム地方のニンマ派やカギュ派の高僧たちが広めたものだった。彼らはドルポパの賛否両論の見解を受け入れ、教えてきたのだった。

 ニンマ派大師カトク・リクズィン・ツェワン・ノルブ(Katok Rikzin Tsewang Norbu 1698-1755)は、同時代をリードするカギュ派の高僧たちに他性空とカーラチャクラの復興をもたらした当の人物である。彼の頌形式の自伝によれば、ツェワン・ノルブは子どものときでさえ、ドルポパとその直弟子たちの名を聞くと、信仰心が高まったという。

 他性空やカーラチャクラの教えがごく自然に感じられたのだが、のちにチョナン派の教義をツェワン・ノルブに伝えた師が、彼をドルポパの弟子、マティ・パンチェン・ロドウ・ギャルツェンの転生であると認定したとき、その理由がわかったのである。マティ・パンチェンはカーラチャクラ・タントラとヴィマラプラバーをチョナン派のために翻訳したふたりの訳経僧のうちのひとりだった。

 1726年、ツァン地方を通ってカトマンドゥ盆地へ向かう途中、ツェワン・ノルブは偉大なるヨーガ行者クンサン・ワンポからなんとかチョナン派の教義を教わろうとした。クンサン・ワンポの師のひとりは、ターラナータの直弟子だったのだ。

 クンサン・ワンポはルラグ・デプン(Rulag Drepung)改め(ゲルク派によって強制的に改め)ガンデン・カチュー(Ganden Khacho)という隠棲所で厳しい隠遁生活を送っていた。ツェワン・ノルブは三日間探したが、その姿を見ることさえできなかった。彼はこの修行者の厳しい禅定に感服し、彼からチョナン派の教義を教わろうと強く思った。

 1728年末、チベットへ戻る途中、ツェワン・ノルブはまたクンサン・ワンポに近づき、今回はチョナン派の教義を伝授してもらうことに成功した。

クンサン・ワンポは『他性空大中観広注』(gzhan stong dbu ma chen po’i lta khrid)、カーラチャクラ灌頂、六支ヨーガ、その他多数のリメ(脱・宗派)の教えを伝授した。

 ツェワン・ノルブはまたクンガ・ドルチョクによって編纂された『チョナン派百の教戒』(Jo nang khrid brgya)やドルポパとターラナータ両者の全集(gsung ‘bum)の著作からの伝授などを受け取った。

 これらのことからわかるのは、18世紀半ばになっても、おなじ寺院のなかで、チョナン派からゲルク派に宗旨替えしていたものの、本来のチョナン派の教義は教えられ、実践されていたのだ。

 ダライラマ五世はチョナン派の教えを禁止しようとしたが、上述のように転向を無理強いさせても、成功したのは表面上にすぎなかった。

 一般的な印象とちがい、はるか東のアムドだけでなく、ツァン地方のチョナンの近くでさえ教えの伝授は生き残っていたのだ。実態はツェワン・ノルブが1734年にチョナンへ行ったとき、はっきりする。彼はかつてドルポパやターラナータが就いた法座に就き、多くの灌頂、経典の伝授、チョナン派のもともとの秘密の教えなどを聴衆に与えた。

 すくなくともこの時期、ゲルク派の上層部はチョナン派の教えがツァン地方中に広がったり復活したりするかもしれないという危機感は持っていなかった。

 ツェワン・ノルブはのち、中央チベットでこの教えを広め、カルマパ13世、ドゥドゥル・ドルジェ(1733-1797)、シャマルパ10世、チュードゥプ・ギャンツォ(1742-1792)らにチョナン派の教えを伝授した。

 チョナン派を持続させたなかで、ツェワン・ノルブのもっとも意義深い役回りは、大学者シトゥ・パンチェン・チューキ・チュンネ(Situ Panchen Chogyi Jungne 1700-1774)の師であったことだろう。シトゥ・パンチェンは1723年、ツェワン・ノルブがはじめて行ったときより何年も早く、タクテンとチョナンを訪ねていた。シトゥの自伝の記述からすると、それは重要なできごとだった。

 記述からすると、ターラナータのタクテンの銀の霊塔はずっと前に破壊されていた。ダライラマ五世の師ムンドパ(Mondropa)に扇動され、五世の命で宗旨替えが強要されたとき、霊塔は破壊されたようである。

 タクテンはいまやゲルク派のもとにあったが、何人かの僧はチョナン派の伝統を守っていたという。シトゥはチョナンの著作のコピーを望んだが、それらは封印されていたため、見ることができなかった。彼は、ターラナータの総本山がこんなにも簡単に陥落したことが悲しく、落ちぶれたことを嘆いた。

 しかし翌日シトゥがチョナンへ行くと、700人もの尼僧が転向しないでチョナン派の伝統を守っている光景を見るのだった。

 25年後の1748年、ツェワン・ノルブとシトゥはカトマンドゥ谷でいっしょにすごしていた。シトゥは何年もチョナン派にかなり興味を持ってきたが、ツェワン・ノルブは他性空を受け入れたと主張し、シトゥに詳細を解説した。おそらくボーダナートでのことである。

 シトゥによると、ツェワン・ノルブは彼に他性空の奥深い哲学を受け入れるように命じた。そうすれば、よい兆し(rten ‘brel)が作り出され、長寿がもたらされ、シトゥは活動の場をおおいに広めるだろう、と言った。

 シトゥはさらにこんなことを付け加える。他性空にもいくつか種類がある。そのなかでも好みは、第7法主とシルンパ(Zilungpa)である、と。それはドルポパとすこし違うという。

 つぎの世紀、他性空の哲学は広く受け入れられるだろうが、その環境作りをするのがシトゥだろうという。ジーン・スミスが1970年に指摘したように「折り合いのつかない他性空と中観をうまくブレンドし、カムのカギュ派に広めたのはシトゥ」だった。

 ツェワン・ノルブとシトゥ・パンチェンによってはじめられた他性空とその他のチョナン派の教えの復興は、19世紀のカムにおけるリメ(脱・宗派運動)の高まりをもたらすこととなった。

 リメの中心人物は、ザ・バルトゥル(Dza Baltrul 1808-1887)、ジャムゴン・コントゥル(Jamgon Kongdrul 1813-1899)、ジャムヤン・キェンツェ・ワンポ(Jamyang Khyentse Wangpo 1820-1892)、ミパム・ギャンツォ(Mipham Gyantso 1846-1912)ら偉大なる師であった。

 そのなかでもとくに他性空を支持し、自身の著作に取り入れたのはジャムゴン・コントクルだった。コントゥルはまたカーラチャクラの六支ヨーガを崇拝していた。彼は注意深くドルポパとターラナータに従っていたのである。

 他性空と六支ヨーガのチョナン派の実践は、コントゥル、キェンツェ、ミパムを通じ、今日まで継承されてきた。これらの教えはチベット中に広がった。そしてチョナン派の伝統はアムドのザムタン寺で生き続けたが、他とは遠く離れた場所だった。

 20世紀に替わる頃から現在にいたるまで、他性空の教えは東チベット出身の偉大なる師たちによって継承されてきた。コントゥル、キェンツェ、ミパム、ジャムヤン・チューキ・ロドゥ(Jamyang Chogyi Lodro)らに教わったリメの継承者たちは、他性空に共感し、ドルポパに焦点をあわせてグルヨーガの論書を書いてきた。

 ジャムヤン・チューキ・ロドゥのもっとも重要な高弟、ニンマ派大師ディルゴ・キェンツェ・リンポチェ(Dilgo Khyentse Rinpoche)、ラブセル・ダワ(Rabsel Dawa 1910-1991)は他性空をとても好んでいた。それはカギュ派大師カル・リンポチェ(Kalu Rinpoche)、ランジュン・クンキャブ(Rangjung Kunkyab 1905-1989)やニンマ派大師ドゥジョム・リンポチェ(Dudjom Rinpoche)、ジクダル・イェシェ・ドルジェ(Jikdral Yeshe Dorje 1904-1987)も同様だった。

 現在ニンマ派とカギュ派の師たちは、これらの大師たちによって伝承されてきた釈論や実践を継承している。結果、他性空を受け入れたカギュ派やニンマ派の大師のなかでも、コントゥルとミパムの解釈がとくに広く支持されている。

 ザムタンを中心としたチョナン派の流布地域をのぞくと、ドルポパ自身が著した論書は伝わっていない。ドルポパの著作の最小限の音読による伝授(lung)も、他性空を教えるカギュ派あるいはニンマ派でさえ行なわれていない。

 これらの師によって他性空が教えられるとき、ドルポパの講じたものと著しく異なるが、コントゥルやミパムの他の著作が使用されるのである。カギュ派やニンマ派で現在他性空として教えられるものは、何世紀にもわたって発展してきたものであり、ドルポパのいきいきとした洞察を、すでに確立された大印契(チャグチェン)や大究竟(ゾクチェン)に統合したものなのである。

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