ラカイン礼賛
3 ラカイン五千年
壊れかけたレンタル自転車に乗ってムラウーの王宮跡の敷地内に入り、木の下の草むらにとめ、平屋の建物の入り口に立った。建物は管理小屋にしか見えなかったが、半開きの扉の奥に石像のようなものが見え、それがラカイン州考古学博物館であることがわかった。
四十代のキップ切りの女性(おそらくキュレーター)に5ドル払って中に入ると、そこには石像や石碑が雑然と所狭しと並んでいた。「写真撮影は禁じられています」と念を押されたため、私は神経を集中して女性の動作をうかがわなければならなかった。ウェーサリー(ムラウーの北7キロ)で発掘された石彫り「ブッダに乳粥を供養するスジャータ」をどうしても写真に収めたかったのだ。レプリカにすぎないのに、なぜ撮影禁止なのか、と私は心の中でつぶやきながら、隠し撮りをした。シットウェのラカイン州文化博物館やムラウーの北40キロのマハムニ寺院内の博物館でも撮影禁止であったため、係員の目を盗んで数枚の写真を撮っていた。
ブッダに乳粥を捧げるスジャータ。頭部はどこいった?スジャータといえばコーヒーメイトの「褐色の恋人」を思い起こしてしまう人もいるかもしれないが、もちろんその由来は苦行のしすぎでやせこけてしまったブッダに乳粥を捧げた女性の名である。過度な修行はかえって解脱の妨げになるとブッダは悟るのだから、とても重要なできごとであった。パーリ語経典『スッタニパータ(ブッダのことば)』に収められている有名なエピソードだ。
展示物を見ると、その横には『ブッダに拝謁する国王』の石彫りがあった。これはあとで述べるように、ラカインの国王が本物のブッダに会ったという伝説を裏付けるものとして注目されている。いや、もちろんなんら証拠になっていないのだが……。
これらの制作年代は博物館では2世紀と推定されている。ところが西欧の学者は早くても6世紀の制作とみている。ラカイン人からすれば、制作年代がブッダの生きていた時代に近ければ近いほど、伝説の信憑性が増すということになるのかもしれない。
しかしラカイン国の発祥はブッダの時代よりはるかに古く、ラカイン年代記によれば、紀元前3325年ということである。現在のマハムニ寺院の近くにあったダニャワディ第一王朝の初代王マラユ(BC3325−3263)から56代王ミン・ンゲ・ピョー・ラ・シトゥ(BC1515−1508)あるいは57代王「三人の簒奪者」まで、具体的にひとりひとりの王の名と年代が年代記に記されている。
この年代記はじつは二十世紀のはじめ、ラカインのチャンダマラランカラ(Candamalalankara)という名の僧侶が過去の年代記などをもとに編纂したものである。五千年以上前の王の名や在位年数がどうしたらわかるだろうか。ディテールを追求するあまり、すべての信憑性を疑わせることになってしまったといえる。ダニャワディ第一王朝は存在したのか。紀元前の壷や皿などが出土しているとはいえ、王朝の存在さえ明確にはいえない。初代王カニャルザルジ(BC1507−1470)にはじまり28代王ティリ・ヤルザル(在位610−580)までつづくダニャワディ第二王朝の存在も曖昧模糊としている。
マハムニ近辺の田園。調和が感じられる。ミャンマーの建国者はサキャ族王子のアビラジャとする神話がある。事の発端はブッダよりずっと昔のことだ。インドのパンチャラ王はコーサラ国に政略結婚を申し込むが断られたため、攻め込み、王族を殲滅しようとする。サキャ族であるコーサラの王族は以後転落の一途をたどる。そうした状況のもと、コーサラ国の王子アビラジャはいくつもの山を越え、現在のマンダレー北方200キロのエーヤワーディ川の沿岸タガウンに国を建てたのだった。アビラジャにはふたりの子供がいた。兄は西南の方向へ旅に出て、アラカン国(ラカイン)に国を建てた。弟は父親のあとを継ぎ、その血統から31代の王が輩出される。
この建国神話にはまったく信憑性がないと言われてきた。たしかに祖先をインドのサキャ族に帰するのは、後世の仏教徒による創作だろう。しかしこの神話から、アラカン国の歴史が長いこと、またかなり古くからアラカン国が仏教の発展した国であったことが読み取れるのである。
ガタ・ジャータカ(本生譚)にはインドの都市ドヴァラヴァティを征服した十人兄弟の話が出てくる。このドヴァラヴァティは、ラカインのサムトウェ、現在のサンドウェのことだという。一方、十人兄弟の妹アンジャナデーヴィはウェーサリーに住んだ。このウェーサリーはラカインの同名の地ウェーサリーのことだという。
アンジャナデーヴィの子孫はマラユ王(前出。ダニャワディ第一王朝の初代王)と結婚した。マラユ王はバラモンの修行者と雌鹿とのあいだにできた子供だった。
また別の伝説によれば、サキャ族の王子カン・ラザ・グリは兄と父アビラジャ(前出)とともにラカインにやってきて、マラユ王の王統の王女と結婚したという。
マハムニ寺院。ダニャワディ遺跡の上に立っている。もっとも重要な伝説は、ゴータマ・ブッダその人がダニャワディを訪れたというエピソードである。
生身のブッダがラカインに来たというのだ!
紀元前554年、ブッダはダニャワディ郊外のセーラギリ(Selagiri)の丘でサンダ・トゥリヤ(チャンドラ・スーリヤ)国王と会った。そのときにブッダに似せて鋳造したのがマハムニ・ブッダだった。
ブッダと同時代にマハムニ・ブッダが鋳造されたとはとうてい考えがたいけれど、この仏像がムラウー王朝の統治の要となり、ラカインの人々の信仰の支えになってきたのはまちがいない。
ブッダが来たという伝説はじつはラカインだけでなく、ミャンマー中央部のマグウェにもある。ブッダは南のプロームにまで足をのばし、そこ(シュリ・クシェトラ)が都になること、そして来たるべき王(ダッタバウン)について予言したという。
ブッダ伝説では伝説にすぎないだろうが、可能性がゼロとは言い切れない。マグウェはともかくとして、ラカインはベンガルの隣り、あるいはベンガルの一部とみなされることもあるわけで、いわばインドの辺境なのである。ブッダ本人でないとしても、弟子がやってきて布教活動をしたことは十分にありえるだろう。
ウ・トゥン・シュエ氏は「ソフトウェアみたいなものですよ。ブッダ本人は来なかったとしても、仏教のエッセンスが来たわけです」と持論を展開した。その考え方に私は賛同した。
ウェーサリーの大仏は見かけよりかなり古いという。伝説によればひとつの巨岩を彫って作られた。
ダニャワディが弱体化したあと勢力を伸ばしたのはムラウーの北10キロにあるウェーサリーだった。遠くから見ると森なのか村なのかわからない、そんな静かな村のはずれに寺院があり、そのなかにス・タウン・プレ大仏が鎮座していた。それはウェーサリー国を建てたマハタイン・チャンドラ王が327年にひとつの巨岩から彫り上げた仏像だという。
ウェーサリーはブッダの時代にインドにあった都市ウェーサリーと同名である。これはウェーサリーの人々がここに移住したということを表わす、と一部のラカインの人々は考えているようだ。ちなみにラカインはマガダと呼ばれることがある。これもラカインの人々がマガダからやってきたことの証なのかもしれない。もちろん、ブッダの時代と結びつけたい人々の願望が生み出したものかもしれないが。
アーナンダ・サンドラ碑の碑文によれば、ウェーサリーには三つの王朝が興亡した。ウェーサリー第一王朝は紀元前510年にはじまり(王の名は不明)、紀元370年に滅んだ。ウェーサリー第二王朝は370年にドウェン・サンドラ王によってはじまり、600年、サリティ・サンドラ王のときに終わった。サンドラはチャンドラ(月の意)と同じである。ウェーサリー第三王朝は600年にマハ・ウィラ王によってはじまり、720年、アーナータ・ワ王のときに滅亡した。
出土物の多さ、質の高さなどをかんがみると、ウェーサリーは高度な文化を擁する先進地域であったことがうかがえる。ただし仏教国であったと断定することはできない。仏像以上にシヴァやヴィシュヌの石像が発掘されているのだから。
ウェーサリーにはヴィシュヌやシヴァの神像がたくさん残っているが、保存状態がいいとはお世辞にもいえない。落書きも自由にできる! 右はマハムニ寺院内の博物館の展示物。ダニャワディで発見された4世紀以前のヴィシュヌ像。
ラカイン年代記によれば、ウェーサリーが衰退したあと、レムロ王朝の時代がやってくる。ムラウーの東側を流れるレムロ川(Lemro)中下流域を拠点とする小規模の王朝がつづいた。
それはピンサル朝(818−1103)、プライン第一王朝(1103−1123)、プライン第二王朝(1123−1160)、ネリンサヤル朝(1160−1250)、ラウン・チェ朝(1250−1406)である。王の在位期間が長いものもあれば短いものもあり、それは王の存在が架空でないことを示しているだろう。
私はチン族の村の刺青ばあさんを探すべく、二日にわたって小船をチャーターし、レムロ川上流域を探索した。車道が通っていないせいか、文明の恩恵にさほど預かっていない地域である。都城があったのは中下流域とはいえ、この地域は森と閑散とした村があるだけで、王朝があったとはにわかには信じがたかった。
バガンに行って遺跡群を見れば一目瞭然、バガン朝(1044−1287)はクメールにも匹敵するような大国だった。彼らは何度もラカイン北部に兵を送り、支配下に置こうとした。伝説によればラカインのマハムニ・ブッダを最初に欲したのは、有名なアノーヤター王だったという。
ラウン・チェ朝でもっともよく知られる王は第9代のミンティ(在位1283−1389 この長さはもちろんありえない)だろう。ミンティは正義を重んじる剛直な人物だった。当時、王室の召使は罪を犯しても罰を逃れることができた。ある金持ちの召使が牛泥棒で捕まった。金持ちはミンティの叔父で有力な大臣のアーナンダバヤに賄賂を贈り、アーナンダバヤの召使ということにして、罰を逃れようとした。しかしミンティは牛泥棒の召使だけでなく、賄賂を受け取った叔父をも処刑してしまったのである。
その厳格さは自身にも適用した。ミンティは宮殿内の金を塗布した柱を清潔に保つため、指をなすりつけた場合、その指を切れと命じた。キンマの実をかじったあと、人はついその指を柱になすりつけてしまいがちなのだ。あるときミンティは知らず知らずのうちに指を柱になすりつけてしまった。彼は自分を例外扱いすることはできないと考え、自身の指を切断してしまった。ナンヤ村に仏像があるが、その指は欠けているという。これはミンティ自身がこのことを忘れないよう、仏像を作るときにその指を切るように命じたのだという。
ミンティが即位してまもなく、バガン朝はモンゴルによって滅ぼされてしまう。このことが幸いして、ミンティが王位についていた時期のラウン・チェ朝ラカインには平和が訪れる。上記のエピソードが生まれたのは、そういった時勢と関係があるだろう。