ラカイン礼賛     宮本神酒男


キリシタン侍が来た頃、トゥッカンテイン・パゴダはまだ新しかった。

4 ムラウー王朝興亡史

<日本からやってきたキリシタン侍>

 平城天皇の子で唐に留学した高丘親王(前出)は天竺をめざしたが、実際に天竺の手前にあるアラカン国(ラカイン)に至ることはなかった。しかしそれから七百年後、キリシタン侍たちがおそらく宣教師が乗っていたポルトガル船に同乗して、はるばるアラカン国の都ムラウーにやってきた。

 いつやってきたかは、はっきりしない。1587年(天正15年)の豊臣秀吉のバテレン追放令のあと、長崎から出国したのかもしれない。タン・ミン・ウはその著書(The River of Lost Footsteps 2006)のなかで、独裁者トヨトミ・ヒデヨシの弾圧を避けるため、長崎から逃れてきた日本のキリスト教徒たち」と説明しているが、どの資料をもとにしているのか明確ではない。長崎はトーレス神父から洗礼を受けたキリシタン大名、大村純忠(15331587)の所領だった。彼らが日本を離れたのが追放令の直後でなかったとしたら、純忠の息子大村喜前(よしあき 洗礼名サンチョ)の時代だったかもしれない。喜前はのちに仏教徒に改宗し、キリシタンを弾圧する側にまわった。

 歴史家のモーリス・コリスは、1612年の徳川家康の禁教令によって彼らは亡命することになったと考えている。ポルトガルのアウグスティン派修道士セバスチャン・マンリケがアラカン国王ティリ・トゥ・ダンマの戴冠式を見たのは1635年だが、それ以前の1629年にはじめてキリシタン侍と会っている。時期からすると、禁教令後の亡命のほうがありえそうだ。おそらく家族ごとにポルトガル船に乗ったのだろう。

 この時期の様子について遠藤周作はつぎのように描写している。

 家康のブレーン金地院崇伝の記述したこの布告(切支丹禁教令)は日本全国で布教を続ける宣教師や主だった信徒はただちに長崎に向かい、国外追放の次の命令を受けるまで待機するよう、きびしく命じていた。そしてもしその命に服さぬ者は禁教するか、処刑されるかのいずれかを選ばねばならぬと付け足されていた。
 (……)幕府の命令にしたがって長崎奉行、長谷川佐兵衛は佐賀、平戸、大村の兵を集め、戒厳令を布いた。兵士たちは教会を倒し、修院を閉鎖し、この街から切支丹の匂いのするもののすべてを粉々に打ち砕くよう命令された。
 (……)彼等(外人宣教師や日本人修道士)は自分たちをマカオやマニラに運ぶ船が来るまで、この福田や木鉢(長崎湾の漁村)から一歩も外に出ることを許されないのだった。

 このように当時のキリシタンは、棄教するのでなければ一刻も早く長崎に集結し、国外脱出をはからなければならぬ差し迫った状況に追い込まれていた。乗り込んだポルトガル船や中国のジャンク船が向ったのはマカオやマニラだった。当時南蛮貿易がさかんだったので、インドのゴアまでのどこへでも行くことは可能だっただろう。しかしたくさんのポルトガル人が居住していた現・バングラデシュのチッタゴンではなく、その手前のアラカン国でキリシタン侍たちが降りることになった経緯は、詳しくは知られていない。

 
旧宮殿の外壁。門から内側を見ると、宮殿はなく、草が生い茂る空き地があるのみ。王の警護を職としていたキリシタン侍たちは城外の下町に住み、宮殿に通勤(!)していたのだろうか。

 アラカン国のキリシタン侍たちは、武士の着物を着て、大小二本の刀を帯に差していた。毎年国王はムラウーの北40キロにあるマハムニ寺院を参拝したが、キリシタン侍たちは警護として同行していた。彼らはガレー船に乗り、ファルコン砲からすさまじい音響の礼砲を放った。

 キリシタン侍の頭(かしら)は甲板に上がり、修道士の前で跪いてレオン・ドノと名乗ったという。レオンはクリスチャン・ネームで、ドノは殿から来ているらしい。甲板の上はキリシタン侍全員が乗るには狭すぎたので、傭兵長ティボーが河岸の木の下に筵を広げさせると、彼らはそちらに移った。彼らはひとりひとり修道士マンリケの前にやってくると、跪いて「まるで聖人であるかのように」恭しく、その手にキスをしたという。日本人がこんなふるまいをするものだろうか、と正直驚かざるをえない。彼らは頭のてっぺんから足の先まで完璧なクリスチャンなのだ。「ヨーロッパにおける司教以上にわれわれ神父は彼らに尊敬されている」とマンリケは感想を書き残した。


基本的にはこういうのんびりした雰囲気は今も昔もおなじだろう。

 レオン・ドノは「もう七年間も神父が来てくださらなかったのです」と言った。神父もいなければ、教会もなかった。告解する機会さえなかったのである。

 彼はマンリケに嘆願した。「ムラウーには教会がありません。国王に造ってくださるようお願いしているのですが、まだ願いはかないません。神父さま(マンリケ)は宮廷にお上がりになるでしょうから、どうか国王に促していただきたいのです」

 マンリケはしかしムラウーに教会を建てることには賛成しなかった。(現バングラデシュ領の)ディアンゴの教会を維持するだけで手一杯だったのだ。ムラウーをディアンゴ教会の管区内に入れようと彼は考えた。しかし当時ムラウーからディアンゴへ行くのはそう容易ではなかったろう。それに現在からみればわかるのだが、1630年前後というのは、オランダや英国、フランスなどが台頭し、ポルトガルが急速に勢いを失くした時期でもあったのだ。


山羊がパゴダの門衛を勤めていた。

 そうこうするうち権力者である高官(検査官)が象に乗ってやってきた。従者のひとりひとりがタバコ、パイプ、火付け用の炭、キンマ、レモネードの瓶、水差しなどを持っていた。彼は船に乗り込むと、船尾楼の中のビロードのクッションの上にどっかりと坐った。

 それからマンリケと高官とのあいだの会話がはじまった。格式ばったやりとりのあと、マンリケは、いままでポルトガルはアラカン国の敵であるムガール帝国やペグーと戦ってきたが、これからも貴国の敵と戦い、国王に奉仕していきたい、といったことを伝えた。宣教師というより、ここでは外交官の役目を負っているのだった。植民地主義の時代における宣教師の役割がはっきりと見てとれる。

 マンリケはお菓子類、とくにアーモンドと卵の練り菓子、マジパンを贈った。それからスパイスや中国産シルクを献上した。

 会話の最中、キリシタン侍の頭(かしら)はじっと川岸にひかえていた。マンリケが高官の船に乗り込む際、頭の姿が目にとまり、彼を同乗させることはできないのか、と尋ねた。官吏のひとりは顔をしかめながら、「彼らは身分が低いので乗せることはできません」と言った。

 日本人のサムライの身分は低かったのである。

 しかしそれを聞きつけた高官が許可を出したので、サムライの頭は上船することができた。彼はおおいに喜び、高官のところに飛んでいき、両手の手のひらを頭上であわせながら、感謝の意を表わしたという。いまのわれわれからすると、武士たるもの、もうちょっと威厳があってもいいのではないかと思うが、身分が低いのであればそもそも威厳など望みようがなかったのである。サムライの頭はマンリケのもとにもやってきて、「感謝してもしきれません。法王の代理人であるあなたにどんなことがあってもお仕え申し上げます」と言った。

 ラカインの食生活になじむのには、たいそうな苦労を要したことだろう。マンリケが国王にもてなされたときの食事について記述している。料理は全般的にスパイスが効いていたという。現在のミャンマー料理とさほど変わらないのかもしれない。素材はあらゆる魚、鳥(鶏や鴨)、家畜、野生の獣、野菜、フルーツなどだった。味付けはともかく、長崎の漁村で育った(?)彼らにとって魚はありがたかっただろう。現在もラカイン州では漁業がさかんで、食卓にはかならず海の産物がならぶ。マンリケは珍味を付け加えている。ネズミのミンチ、蛇の炒め物、蝙蝠の煮物などである。ただしこれらは高価な食べ物で、キリシタン侍たちには無縁であったかもしれない。

 
レストラン前に巨大な魚(全長50cm)が干してあった。右の二つの赤い汁の皿はフィッシュ・カレー。

 1635年には、すべて金箔が施された豪勢な宮殿の間で、12人の属邦の王の戴冠式が行われた。国といっても村といってもいい小規模なレベルだった。ティリ・トゥ・ダンマはインド、さらにはインドの向こうまでも含む広大な版図をもつ帝国をいずれは建てたいという野望をいだいていた。

戴冠式の参列者には、インド(ムガール朝)のイスラム教徒、タライン人(モン人)、ビルマ人、フェリンギ(ポルトガル人)の砲手、そして日本のキリスト教徒が含まれ、国際色が豊かだった。

 国王に寵愛されるということは、国王が死んだり没落したりしたときには同時に力を失うリスクがあるということである。ときの国王(ムラウー第二王朝八代国王)ティリ・トゥ・ダンマは、モウルメインやペグーに攻め込み、アナウッペルンの鐘を持ち帰るなど、国の絶頂期を築いた。しかし王妃ナッシンメの情夫であったラウンジェ王(大臣であり王族でもあった)の黒魔術によって死んでしまう。黒魔術というのはおそらく現在もさかんにおこなわれているインという呪符を使ったものかもしれない。しかし実際は毒殺されたのだろう。後継者である幼い息子ミンサネもまた、即位してわずか二十日で病死する。

 この王妃の情夫はそのまま即位してナラパティジ王を名乗る。王はすかさず王族の大量虐殺を行ったという。簒奪者は独裁者となったのだ。のちミンガラマナウン・パゴダを建立し、遠くスリランカから三蔵を請来し、ピタカタイクに収めたのは、罪悪感のなせるわざかもしれない。

 キリシタン武士たちはどうなったのだろうか。残念ながら記録は残っていないが、後ろ盾をなくしたあと、彼らはどうやって生き延びたのだろうか。それとも前国王の一族と運命をともにしたのだろうか。クリスチャンとはいえ、主君に仕える者は最後まで忠義を尽くすという儒教的な考え方を持っていたかもしれないと思う。


 
小さい尼さんは孤児の場合が多いという。丘の上の石碑まで案内してくれた可愛らしい小坊主(右)。

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