ラカイン礼賛      宮本神酒男

 
シッタウン寺院の裏に隠れるブッダ。右はシッタウン寺院全景。

4 ムラウー王朝興亡史

<「猿のたまご」ムラウー朝の発展と滅亡>(上)

 アラカン国(ラカイン)の絶頂期は、16世紀半ばからムガール朝に滅ぼされる1666年までの百年余りだろう。キリシタン武士たちがムラウーに来たのは絶頂期のさなかであり、主だったパゴダも建立されてそれほど時間がたっていなかった。パゴダは最新様式の建築であり、仏像は金ぴかに光っていたことだろう。

 
シッタウン寺院のブッダたち。寺院は1535年、ミンビン王によって建立された。

 伝説によれば、昔、仏教を守護したことで知られるアショーカ王(紀元前268232)がラカインにやってきたとき、猿の女王と会った。女王は孔雀王と夫婦になり、ふたりのあいだに二つのたまごが生まれた。アショーカ王(ときにはブッダともいう)はこの地に将来ムラウ(猿)ウー(たまご)という名の都市ができるだろうと予言した。ふたつのたまごからはふたりの少女が生まれ、ふたりの守護霊によって育てられた。地名由来伝説はこじつけであることが多いが、この伝説もなにかしっくりこない。
 もしかすると猴祖(猿の祖先)神話のひとつかもしれない。私が別のところで書いたように、チベット人を含むチベット・ビルマ語族の多くの民族がこの種の神話・伝説をもっているのだ。ラカイン人(チベット・ビルマ語族)が猴祖神話を携えてこの地へやってきた可能性は少なくないだろう。(⇒『猴祖神話』)

 ビルマ語で猿はミャウ(ムラウ)だが、チベット語には猿(spra)のほかに猿人を指すミウ(mi'u)という語がある。このミウから古代チベット六氏族が生まれたのである。ミウとミャウが同源であるとするなら、この伝説の猿の女王も、猿人の女王とすべきかもしれない。


アンドウ・パゴダは1521年に建立されたが、仏歯を奉納して1596年に再建された。

 15世紀になるまで、ラカインの中心地はダニャワディ、ウェーサリー、あるいはレムロ川沿岸であり、ムラウーは目立たない山間の地域にすぎなかった。ピラミッドかと見まがうような小さな丘がたくさんあり、難攻不落の都城を築くのに最適な場所に見えたかもしれない。


アンドウ・パゴダの壁画。修復ぐあいがかえって味わいを出している。

 ナラメイクラ王(ミン・ソー・モン)は1404年、ビルマ人の攻撃を受けてベンガルへ逃亡し、そこでガウルの王から丁重にもてなされた。長年ベンガルで亡命生活を送り、ガウルの援助によってラカインへもどることができた。はじめイスラム教徒の司令官の裏切りにあい、刑務所に入れられたこともあったが、最終的には彼らの協力も得て1430年、王位に復帰することができた。これがムラウー第一王朝である。ムラウーにイスラム教徒のためにサンディカン・モスクが建てられた。王自身は仏教徒だったが、イスラム教徒には恩があり、その勢力を無視することはできなかった。

 ナラメイクラ王がラウン・チェからムラウーへ遷都しようとすると、占星術師は「もし遷都したなら、その年のうちに王は死ぬだろう」と予言した。ナラメイクラ王は「民が利益を得るならば、わが命などどうなってもかまわぬ」と言って決行した。1433年、ムラウーが建てられ、その翌年に彼は逝去した。

 ナラメイクラ王の弟ナラヌ(アリ・カーン 14331459)は国王に即位し、サンドウェやラムを併合した。1459年、つぎの王バソピュ(カリマ・シャー 14591482)は現在バングラデシュのチッタゴンを支配下に収めた。以後1666年まで、チッタゴンはラカイン領だった。


ラタナボン・パゴダ。1612年、王妃シントウェによって建立された。右奥にシッタウンが見える。

 バソピュ王のあと9人の王が即位したが、目立ったできごとは起きていない。その後ミンビン(ミンパ15311553)が即位すると、ムラウーは歴史上もっとも輝く時代を迎える。これがムラウー第二王朝である。ミンパ王はシュウェダウン・パゴダ、シッタウン、トゥッカンテイン、レミェトゥナ、アンドウ寺院といった現在も観光の目玉といえるパゴダや寺院を建立した。またスリランカにあった仏歯(ブッダの聖なる歯)を取り寄せ、アンドウ寺院のストゥーパ内に奉納したという。

 ミンビン王にとって不幸だったのは、在位期間がビルマ・タウングー朝の王タビンシュエティー(15311550)とほぼ重なってしまったことだ。即位したときまだ15歳だったという血気あふれる若き王タビンシュエティーは、つぎつぎとビルマ各地を版図におさめ、1539年には現在のヤンゴンのやや北にあるモン族の都ペグー(バゴー)を陥落させた。ラカイン北部に攻勢をしかけたのは、1546年から翌年にかけてのことだった。

 ビルマ軍が攻めてきたとき、ミンビン王の軍はため池の水門をあけて洪水を起こし、ビルマの兵士を押し流したという。

 ラカインの西方では、トリプラ(インド東部)の諸部族の攻撃を受けたが、ミンビン王はチッタゴンやラムを守りぬいた。

 ラカインの海岸部はポルトガル人の海賊にしばしば荒らされていたが、強力な海軍を持つムラウー王朝は、撃退するのではなく、むしろ連合して大きな組織を作り上げた。彼らの本拠地はチッタゴンだった。チッタゴンはまれにみる盛況な港となった。日本でいわれた南蛮貿易の拠点のひとつである。ミンビン王は兄弟か王族のだれかを総督としてチッタゴンに置き、毎年軍需品などを満載した百艘の船をラカインから送った。

 
まるで要塞のようなトゥッカンテイン・パゴダ。懐中電灯ひとつで真っ暗な螺旋状のトンネル(回廊)を進んでいく。夕方だったので、入り口の南京錠をだれかが閉めてしまうのではないかとヒヤヒヤだった。最奥部に空間があり、金色のブッダが鎮座していた。

 5代あとのミンラザジ(15931612)は野望を持った国王だった。ポルトガル人の傭兵フェリペ・デ・ブリトーを顧問として迎え、ペグー(バゴー)へ遠征したのである。遠征隊は陸の徴兵部隊だけでなく、チッタゴンやガンジス川デルタ地帯の小艦隊も含まれていた。

 
トゥッカンテイン内部の螺旋回廊にはいくつもの壁龕(へきがん)があり、多彩な顔のブッダが見られる。

 遠征先から連れ帰ったビルマ人やタライン人(モン人)、シャム人捕虜は、ラカイン北部マユ川流域にとどめ置いた。サンドウェにレミェトゥナ・パゴダやアンドウ・パゴダを建立したのはタライン人だった。およそ千人のタライン人が脱出を図ったが、すぐに捕まってしまったという。彼らはまた王子のミンカマウンの援助を得て、インド人たちとともに国王暗殺を目論んだが、失敗する。王子は赦免されるが、仲間のウッガ・ビャンは罰として両手を打ち落とされ、タライン人やインド人とともに奴隷としてマハムニ・ブッダのもとに送られた。これはマハムニ寺院の寺奴婢とされたということなのだろうか。

 1607年、ミンラザジ王はフェリペ・デ・ブリトーがチッタゴンの向かいにある港町ディアンガを支配下に置くのを恐れるあまり、そこに居住する600人のポルトガル人を虐殺した。

セバスチャン・ゴンザレス・チボーは虐殺を免れた数少ない生き残りのひとりだった。ティボーらはサンドウィップ島に上陸してラカイン人の海賊を虐殺し、そこに拠点を作った。以後サンドウィップ島が交易の中心となる。彼らはブラマプトラ川やガンジス川河口の木材を集積し、造船をさかんに行った。

 王の兄弟であるチッタゴン総督は妹をチボーのもとに嫁がせた。ティボーらはラカインで荒らしまわっていたので、ミンラザジ王は婚姻関係を結ぶのをよしとしなかった。しかしムガール帝国のベンガル総督がラカイン支配下のノアーカーリ(チッタゴン地区)を奪おうとしていたので、王はティボーと同盟関係を結ぶことにしたのだった。

 しかしティボーは相当の荒くれ男だったようだ。会議の最中に部隊長を殺し、ラカインの小艦隊を手中に収めるという荒業をやってのけた。彼はたびたび村々を襲い、レムロ川流域にまでその範囲は達した。そして国王の金と象牙で飾られた船まで略奪したのだった。

 
シュエタウン・パゴダ。ここにたどりつくまでの丘の道なき道には難渋した。

 たとえ恩赦を受けたとはいえ、父親である国王の暗殺計画に加担した王子、ミンカマウン(フセイン・シャー 16121622)が国王に即位したのは不思議なことである。おそらくポルトガルと対抗するだけの力と叡智を持った王子は彼をおいてほかにいなかったのだろう。

 彼ははじめサンドウィップ島を攻めようとするが、北からトリプラの王の襲撃を受けてその対処におわれため、やむなく中止して引き上げた。その直後の1615年、ポルトガル政府の艦隊からサポートを得たチボーがムラウーを激しく攻撃してきた。1617年、ミンカマウン王はそれに対抗してオランダ艦隊のバックアップを得て、サンドウィップ島を攻撃し、チボーを島から追い出すことができた。これ以来ポルトガルはムラウー国王と敵対するのをやめ、むしろ仕えるようになった。

 なおミンカマウンの治世のとき、王妃シントウェによってラトナボン・パゴダが建てられた。

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