ラカイン礼賛     宮本神酒男

4 ムラウー王朝興亡史

<「猿のたまご」ムラウー朝の発展と滅亡>(下) コウタウン寺院のストゥーパ群

 つぎの国王は前述のように、日本から来た武士を警護として雇ったティリ・トゥダンマ(16221638)だった。彼は戴冠式を十二年も引き伸ばした。というのも、即位すれば一年以内に死ぬだろうという予言を真に受けたからだった。二百年前にナラメイクラ王が「遷都すれば王は死ぬだろう」という予言を受けても意志を曲げなかったのに対し、彼は予言を信じてしまった。この運命を避けるために、儀式を開き、6千の人間の心臓、4千の白牛の心臓、2千の白鳩を捧げたという。数字は誇張されているとしても、実際にそれに類した儀式が行われたのはまちがいないだろう。

 ポルトガル修道士の記述によれば、国王の宮廷は国際色豊かだった。モウルメインやペグーを攻略するなどアラカン国(ラカイン)の勢力拡大に尽力したが、王妃の裏切りによって没してしまう。王妃の情人で王位の簒奪者であるナラパティジの治世は八年続いた。


どしゃぶりが降ってきた。あわてて階段を降りるとき、滑って転んで右手甲を擦りむいた。コウタウン寺院内部で雨宿り。
外が雨音でうるさいぶん、なかはひっそりと静まり返っていた。千のブッダたちは寡黙だった。

 ナラパティジの2代あとの国王、サンダトゥダンマ(16521684)によって、ムラウー王朝は最後の輝きを放った。言い換えれば治世の終盤には輝きが尽きてしまったということなのだが。王はまた、善政を敷いた国王として記憶されている。

 

王はズィナマナウン、テチャマナウン、ラタナマナウン、シュエチャテイン、ローカム・パゴダなどをムラウーに建立した。また治世最後の年には、オランダのサポートによって40人の僧侶をスリランカに派遣し、学ばせた。オランダはすたれていたウパサムパダーの得度式を復活し、ポルトガルがスリランカで広めていたカトリックに対抗しようとした。

 サンダトゥダンマの、いやムラウー王朝の運命を変えたのは、ムガール帝国第6代皇帝アウラングゼーブの兄で第5代皇帝シャー・ジャハーンの次男、シュジャーだった。アウラングゼーブは一番上の兄ダーラーを殺し、その首を父シャー・ジャハーンのもとに送りつけた。ほかの兄弟も倒し、父シャー・ジャハーンを幽閉して皇位についた。そんな残虐で無慈悲な弟との権力争いに負けたシュジャーは、1660年、落ち延びてラカインに達した。シュジャーは国王サンダトゥダンマに、身をかくまうこと、メッカへ行くための船を提供することを請願した。


人里から離れたラナタマナウン寺院のブッダは華奢でやさしそうに見える。

 シュジャーは駱駝6頭ないしは8頭に満載された金銀宝石を持っていた。一方、ムガール王朝はシュジャーの引渡しを要求してきた。シュジャーをかくまい、逃走用の船を用意すればそれ相当の、いや余りある報酬を得られるだろう。しかし大国ムガールにラカインを攻める口実を与えることになる。

それではシュジャーを殺すべきか?そんなことができるはずもない。信仰心の篤い仏教徒であるサンダトゥダンマは板ばさみにあっていた。

 約束がはたされないまま八ヶ月がすぎた。船を用意するどころか、国王はシュジャーに娘を差し出すよう要求した。これにはシュジャーの堪忍袋の緒も切れた。助ける気など毛頭ないのだろうと彼は考え、国王を倒す決心をした。


ムラウーを囲む城壁に位置するバブタウン・アシャンマ・パゴダ。獅子が守る。

 シュジャーは信義のあつい部下ふたりと買収した地元のイスラム教徒らを使って国王を暗殺する計画を練り上げた。しかし謀略がばれてしまい、部下たちは宮廷に火を放ち、シュジャーは森の奥へ逃げ込んだ。もとより逃亡生活などに向いていない彼は数日のうちに捕まり、処刑されてしまった。

 おそらくサンダトゥダンマは、娘をよこせと言えば、きれて暴力に訴えてくるだろうと考えたのだ。もしこの件を乗り切っても、またつぎに難題をもちだし、永遠に船は用意されないだろう、とシュジャーは考えたにちがいない。結局、逃げ場などなかったのである。

 シュジャーの娘たちはハーレムに送られたが、一年後、みな餓死させられた。長女は国王の子をはらんでいたという。息子たちはみな打ち首にされた。シュジャー一家は全滅することになった。


そのパゴダの内部。訪れる人は少ないが、供え物が途切れることはない。

 ムガール皇帝アウラングゼーブは、シュジャーを殺したいとは思っていたが、それを赤の他人がやったこと、また殺したくなかった娘たちまでもが殺されたと聞いて、激怒した。マグ人(ラカイン人)の海賊はつねづね頭痛の種だったので、皇帝は彼らを駆除することに決めた。

 ムガールのベンガル総督シャイスタ・ハーンは艦船を造り、1665年、サンドウィップ島を攻めてマグ人(ラカイン人)を追い出した。驚いたポルトガル人たちは島を脱出し、シャイスタ・ハーンの配慮によってダッカの南方に領地をもらい、そこに移り住んだ。

 1666年、シャイスタ・ハーンは288艘の船と6千5百人の兵士でもってチッタゴンとラムを陥落した。そして2千人のラカイン人が奴隷とされ、1026のカノン砲が接収され、135艘の船が沈められた。ラカインに向って逃げた者たちも、途中で以前に捕らえて奴隷にしたベンガル人たちによって多くが殺されてしまった。


丘の上に立つツイン金色パゴダ。遠くからだと森の中に金の塔が立っているように見える。

 こうしてラカインのムラウー王朝の全盛期はあっというまに没落期に移ってしまった。サンダトゥダンマのあと、110年のあいだに24人の王が即位した。一人当たり4・6年の在位ということになる。例外的なサンダウィザヤ(17101731)を除けば、3・9年である。最後の百年にいかに多くの国王が殺されたか、いかに国が混乱したか、数字が物語っている。

 

 シュジャーの家来は「護衛の射手」としてムラウーの宮廷に残った。彼らは自由に王を変えることができるほどの力を持っていた。つねにインドから新しい人がやってきたので、人数が不足するということはなかった。

 サンダウィザヤはそんな状況のなかで王として即位し、「護衛の射手」を追放した。彼らはいまカマン(ペルシア語で弓の意)という名で呼ばれているという。王はまたかつてのようにトリプラの王と戦い、サンドウィップ島やプロームに進攻した。しかしかつての輝きを取り戻すことはなかった。

 ラカインは現在バングラデシュ領のチッタゴンやラム、サンドウィップ島を失っただけでなく、その本体であるラカインを保持することもできなくなっていた。


草ぼうぼうのラウンバンピャウ・パゴダ。

 1784年、ビルマ・アラウンパヤ王朝のボードーパヤ王(1782−1819)は三万人の兵をラカインに送った。彼らは激しく抵抗するラカイン人たちからマハムニ・ブッダを強奪し、船に載せてマンダレー近郊へ運んだ。

それはラカイン国ムラウー王朝の死を意味していた。ビルマの王は、マハムニ・ブッダを奪えば伝統的に強国であるラカインの力を削ぎ、そのパワーを自分たちの国にもたらすと考えたのである。こうしてラカイン国は1785年、ついにビルマに併合されてしまうのだ。

そして1826年には、ビルマ全体よりいち早く、大英帝国に併合されることになる。ビルマが独立をはたし、ミャンマーと名前を変えたいま、ラカインの独立が話題にのぼることさえない。

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