ラカイン礼賛     宮本神酒男


突如スコールに襲われ、無名の仏塔の中に逃げ込んだ。Mongkhong Shwedu

5 隠れブッダ(1) Hidden Buddhas

 ヤンゴンで乗ったラカイン州シットウェ行きエア・マンダレーの機内は、自分を含めて外国人は三人だけ。シットウェで乗ったムラウー行き客船も、初老のフランス人と私の二人だけだった。ムラウーでは熟年の英国人女性二人と知り合い、中年の白人男性を一人遺跡でみかけたぐらい。いくらなんでも、これは悲惨すぎる。とうてい観光産業が成り立つ状況ではない。

 それもそのはずで、いまはモンスーン・シーズンまっさかりなのだった。私はそのことを知らないで来てしまったのである。ラカインにはおよそ十日間いたけれど、始終雨模様だった。ときどきザーっと降ったかと思えばしとしとと降りつづき、そのつぎにカラっと晴れる。スコールが来たときはバンガロー風のトロピカルなホテルの部屋でじっと上がるのを待つ。


モンコン・シュエドゥー内部のブッダ。雨が小降りになるまでの時間、ご一緒させていただいた。

 外で雨が降ってきたときは、近くのパゴダの中で雨宿りをする。そういうことが何度もあったので、すっかり慣わしとなった。レンタル自転車に乗ってペイシ・タウン・パヤーという仏塔をめざしたとき、まちがえてその手前の丘の上の仏塔(1629年に建てられたモンコン・シュエドゥという名の仏塔であることがあとでわかった)に行ってしまった。無名の古い仏塔は、いたるところにあるのだ。石段を上がるとき、突然激しい雨が落ちてきた。あわててパゴダの内部に駆け込んだ。滝のように流れる雨脚を眺めているとき、両頬は狭い通路の苔むした壁をひんやりと感じていた。通路の奥にはやさしそうな顔をしたブッダがいた。しばらくそこにいると、しだいに友人のように親近感が湧いてくるのだった。

 

 雨が小降りになったので、傘を差したまま仏塔の周囲の壁龕(へきがん)に鎮座するブッダたちを写真におさめながら回った。どれもあまり手入れが行き届いていないのか、それほど古くないはずなのに、古めかしく見えた。そもそも仏像そのものがゆがんでいたり、欠けていたりして、文化遺産と呼べるような代物ではなかった。

 

 しかし私はそんな人間的な(?)ブッダが好きだった。ミャンマーのいたるところで見かける金箔を塗り込められた金色(こんじき)のブッダより、名もないブッダが好きだった。

 

 われわれ大乗仏教の仏教徒にとって(私の場合とくにチベット仏教だが)仏像といえばブッダの像だけでなく、観音(アヴァローキテーシュヴァラ)や文殊(マンジュシュリー)などあまたの菩薩の像も指す。またブッダといっても阿弥陀(アミターバ)や大日如来(ヴァイローチャナ)などが含まれる。大乗仏教徒は徹底した偶像崇拝者なのである。

 

 それにたいしテーラヴァーダ(上座部仏教)のブッダは、ブッダ以外の何者でもありえない。ミャンマーのどこに行ってもブッダ、ブッダ、ブッダ……、ブッダばかりなのだ。ブッダだらけであることに慣れてくると、不思議なことに、その無数のブッダがみな違っていることに気づくようになった。個性があるのだ。この名もなき仏塔の名もなきブッダたちを見てほしい。みな個性的な顔をしているではないか。ブッダはひとりであり、多数でもあるのだ。そう考えると心の底から信仰心が湧き上がってくるように感じるのだった。 

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