猴祖神話
チベット・ビルマ語族の源流探し
宮本神酒男
ホータンの唐代のチベット城砦址と出土した玉の猿。
はじめに
すこしでもチベットに興味を持つ者なら、あるいは神話学に関心のある者なら、猿を始祖とするチベットの神話、いわゆる猴祖神話について耳にしたことがあるだろう。学校でダーウィンの進化論を習う我々からすれば、祖先が猿であるのは至極当然なのだが、猿を祖先とする民族起源神話となると、世界を見渡してもそんなに多くはない。
不思議なのは、この特別な神話を除くと、チベット人は猿をさほど重要視していないように見える点である。11世紀以前の文献には猴祖に関する記述は見られない。あえて探すと、『旧唐書』および『新唐書』の「吐蕃伝」に「(賛普は)その臣下とは一年に一回小盟するが、そのときは羊・犬・猿などを犠牲にする」という箇所がある。日常的な畜類として『旧唐書』には「ヤク、ブタ、犬、羊、馬」が挙げられているので、羊と犬は不思議でないが、容易に捕獲できない猿が犠牲の一つというのは、猿の重要性を物語っているだろう。
動物故事のようなものならばいくつもある。猿のお尻はなぜ赤いか(ほかにウサギはなぜ口が裂けているか、キツネはなぜ臭いか)をモティーフとする「ウサギと猿とキツネ」のような、ありふれた寓話である。また、チベット人の住居の壁によく飾られている「親睦四瑞(トゥンパ・プンシ mthun-pa spun-bzhi)」という寓話画も、象の上に猿、猿の上にウサギ、ウサギの上に鳥がのり、協力して樹上の果実を取るという道徳的な吉祥のモティーフであり、猿は四つの動物のうちの一つにすぎない。
猿が始祖ということは、猿をトーテムとしていた可能性が大きい。それなのに、インドのハヌマンのような猿崇拝はなく、現在行われる儀礼の中で猿が重要な役割を果たすこともない。
一昨年新疆ウイグル自治区ホータンの博物館を訪ねたとき、陳列された小さな玉(ぎょく)の「子を背負った猿」を見て、私ははっとした。唐代のある時期(とくに790−850年頃)、吐蕃はホータンを支配下に収めていた。当時、吐蕃領の要衝だった神山(現在のマザタグ。漢名は紅白山)というホータン北方200キロのタクラマカン砂漠中の城砦址から出土したものだという。この美しい城砦址からは多数のチベット文字で書かれた木簡が出土している。玉はいうまでもなく、古代よりホータンの名産だった。おそらく地元の有力者が吐蕃の将軍に贈ったものだろう。もしそうなら、吐蕃の人々が猿の子孫であることを誇りにしていた証左になるかもしれない。
これと似たものとして、高名なチベット学者で考古学者のジュゼッペ・トゥッチが西チベットのツァパラン(グゲ王宮址かその周辺)で発見した青銅の猿がある。これも時代や背景ははっきりしないが、王室への贈り物か、お守りだったと思われる。
また、ラサのチュゴン村から出土した陶器には小さな猿の面(4・3×2・6cm)が貼り付けられていた。この陶器の年代はおそらくラサに都を築いたソンツェン・ガムポ王(7世紀前半)以前であり、言い換えれば強大化する吐蕃以前である。吐蕃以前だとしても、居住していたのはチベット系の人々だろう。研究者の多くは、この猿面が、猿トーテムのあったことを示しているのではないかと考えている。
いつごろからチベット人は猿への関心をなくしてしまったのだろうか。840年代、中央アジアにまで進出していた強大な吐蕃(ヤルルン朝チベット)は、ランダルマ王の暗殺でもって突然瓦解し、チベットに暗黒の時代が到来する。10世紀後半、ようやくヤルルン朝の血統をひく西チベットのグゲ王国に訳経僧リンチェン・サンポが登場し、その指揮下、厖大な仏典が翻訳され、11世紀半ばには、インドからヴィクラマシーラ大僧院の高僧アティーシャが招聘される。こののち、中央チベットやツァン地方にカギュ派やカダム派(のちのゲルク派)、サキャ派などが生まれ、チベットは仏教国として復活を遂げる。
新生チベットの人々は、もはや猿トーテムに関心を持たなくなっていたのかもしれない。そのため、始祖神話は改変され、猿は観音菩薩から具足戒を受け、修行し、悟りを開いて羅刹女と結婚する。あるいは、バージョンによっては、猿は観音菩薩の生まれ変わりであり、羅刹女もまたターラー女神の化身である。猴祖神話は仏教説話になってしまったのである。始祖が野蛮な猿であることは、仏教徒になったチベット人にとって容認しがたいことだっただろう。
ここまで、猴祖神話がまるでチベット人の専売特許であるかのように書いてきた。しかしじつは、猴祖神話に似た神話・伝説なら、中国西南のチベット・ビルマ語族のなかに数多く存在している。そしてそれらは言うまでもなく、仏教説話的ではない。仏教説話どころか、猿が妻の不倫の相手であり、その結果生まれたのが人間だという衝撃の(?)伝説さえあるのだ。
サンスクリット原典から五千巻もの仏典を翻訳するなど、チベット人は他に抜きん出た赫々たる存在ではあるが、細かく分ければ数百種にも及ぶチベット・ビルマ語族の一民族にすぎない、という面も忘れてはならない。五千年前、あるいはそれ以前、移動し、分化する前は、中国西北かモンゴルあたりで、大きな集団(古羌人)を成していただろう。
だからこそすべてのチベット・ビルマ語族は分散しても、言語だけでなく、文化や習慣、考え方などにわずかながらも共通項を持っている。猴祖神話のもとになるような伝承も、当然チベット人だけでなく、他の民族も受け継いでいるはずである。また儀礼のなかにも猿崇拝の痕跡があるはずだ。それらについてはあとでまた検討したい。
ナムイの送魂絵巻にも野人(=猿)が登場。猴祖神話とその原形
猴祖神話は13世紀以降、チベット語の史書に突然頻繁に現れるようになる。そのなかで、もっとも具体的で、よくまとまっているのがサキャ派のソナム・ギャルツェン(1312−1375)著『王統明鏡』(1388年成立)の第7章だろう。全訳はこちらのサイトを見ていただきたい。ここには要旨のみを示したい。
<猴祖神話>
観音は神変の猿に具足戒を与え、雪の国チベットで修行するように命じた。猿は命令を守り、黒洞で修行した。猿は慈悲と菩提心について学び、深遠なる空性の法を信解(しんげ)した。
あるとき岩魔女がやってきて、猿を誘惑しようとした。
猿は「わたしは観音菩薩の持戒の弟子であります。もし夫婦の契りを結んだら、それは戒律を犯したことになります」と拒もうとした。
岩魔女は涙を落としながら、なお迫った。そこで猿菩薩はポタラ山へ飛び、観音菩薩に懇願した。「ああ、衆生を守る慈悲深いお方、羅刹女が戒を破らせようとしております」
しかし観音は「岩魔女と夫婦になりなさい」と答えた。
こうして猿と岩魔女は夫婦の契りを結んだ。その後六匹の小猿が生まれた。父の猿菩薩は小猿たちを森の果樹に三年放置した。三年後、繁殖して小猿は五百匹に増えた。しかし果実は食い尽くされ、ほかに食べ物もなかった。
父の猿菩薩は「ああ、慈悲深い主よ、どうやって子どもを育てたらいいのでしょうか」とたずねた。
観音は「汝の子孫は我が育てよう」と言って、須弥山の隙間からチンコー麦、小麦、豆、蕎麦、大麦を取り出し、地上に撒いた。その地には穀物が自生した。父の菩薩猿は小猿たちをこの地に連れてきて、穀物を食べさせた。
幼い小猿たちは満足した。すると毛は短くなり、尾は縮み、ことばがしゃべれるようになり、ついに人間になった。そして木の葉を衣とした。
こうして雪の国の人々は、猿を父、岩魔女を母として生まれ、繁栄した。それゆえ二種類の性質をもっている。父の菩薩猿は、おとなしく善良で、信心が堅く、あわれみの心を持っていた。一方母の岩魔女は、貪欲で怒りやすく、性格は激しく、商い好きだった。
当時、川から水があふれると、水はいくつにも分かれ、野を潤した。その野の上で子孫たちは農業に従事し、町を建てた。しばらくしてニャティ・ツェンポという者が出て、チベットの王となった。臣民が分かれるようになった最初である。
猿は、説話によっては観音菩薩の化身とされるが、この説話バージョンでは、観音から戒を受け菩薩(Byang chub sems dpa’)となった、としている。ここで留意しておくべきことは、チベットにおいて観音信仰はかなり古くからあったことだ。吐蕃国王ソンツェン・ガムポ(7世紀前半)は後世、観音の化身とみなされ、ラサに築いたポタラ宮も、観音菩薩のいるポタラ(普陀洛)に由来する。また歴代ダライラマも観音菩薩の化身とみなされてきた。猿は阿弥陀でも弥勒でもなく、観音でなければならなかったのだ。
岩魔女(Brag srin mo)は、より正確に訳すと、岩羅刹女である。シンモ(srin mo)はシンポ(srin po)の男性形であり、サンスクリットではラークシャサ(羅刹)およびラークシャシ(羅刹女)となる。
『王統明鏡』が編纂された14世紀、インドのラークシャサ(羅刹)およびラークシャシ(羅刹女)はすでにチベットではよく知られていた。その語根ラークシャ(Raksha)は、「守る」という意味である。『リグ・ヴェーダ』や『アタルヴァ・ヴェーダ』ではラークシャサは「守る人」という意味で使われていたが、その後「敵」になり、「破壊者」という意味を帯びるようになる。
ラークシャシはこうして暴力的で、血を飲み、人身御供を要求する魔女として描かれるようになった。シンモ(羅刹女)はあきらかにこのラークシャシのイメージでとらえられているのだ。
なお小猿が六匹なのは、チベットの古代六大氏族と対応しているだろう。
この『王統明鏡』の完成された猴祖神話以前には、どんな猴祖神話があったのだろうか。そのヒントとなるのは、メンパ族の「猴子変人」である。
<猴子変人>
はるか昔、天には太陽も月も星もなく、大地には人影ひとつなかった。天地の間は渺茫として、昼夜も分かれていなかった。天神は世界を建てるため、侍臣の神猿・ジャンチュセンバと侍女・チャシェンムを大地に降臨させ、命じて夫婦の契りを結ばせた。チャシェンムはたくさんの子を生んだが、どれも猿のようだった。そこで天神は彼らに「天鉄」の斧と鶏爪穀、チンコー麦、トウモロコシの種子を与え、狩猟や種まきについて教え、火の用い方を説明した。彼らは煮た料理を食べるようになった。すると全身から毛が抜け、尾が取れ、人間になった。このとき人間が誕生した。
ジャンチュセンバはあきらかにチャンチュプ・セムパ、すなわち菩薩、チャシェンムはダク・シンモ、すなわち岩魔女である。するとすでにこの説話も、仏教説話化しているということになる。また火を知るという文明化によって、毛が抜けたり尾が落ちたりする点も、猴祖神話ときわめて近いといえる。
『チベット族民間文学』には猴祖神話の口承バージョンが集録されている。
<口承版猴祖神話>
はるか古代、ヤルルン谷のチョンゲ地方は気候が温和で、森もよく茂っていた。山の上に一匹の猿がいた。のちこの猿は岩魔女と夫婦になり、六匹(一説には四匹)の子どもを生んだ。猿は子どもたちを果実がたくさんなる森のなかに置いていった。三年後、森に戻ると、子猿は五百匹に増えていた。食べ物が足りず、小猿たちは泣き喚いていた。そして猿に向かって「なんでもいいから食べさせてくれ」と叫ぶさまは、悲惨そのものだった。猿はこの光景に耐え切れず、彼らを野生の穀物がなる丘に連れて行き、「さあこれらを食べるといい」と命じた。自生する穀物を食べたところ、彼らの全身から毛が抜け、尾も消えていった。そして話すことができるようになり、ついに人間になった。
この口承版は、上述のメンパ族版よりもさらに『王統明鏡』版に近いが、菩薩も仏教用語も登場せず、より素朴な説話に見える。もしこれがあとで改変されたのでなければ、猴祖神話の原形といえるだろう。穀物を食べたり、火を用いることで、すなわち文明化することで、毛が抜け、尾が取れ、人間となるのは、三つの説話に共通している点である。チベット人からすればダーウィンの進化論は目新しいものではなかった、とも言いたくなるほど進化論的なモティーフだ。
猴祖神話の源流
敦煌文書を除くチベット文資料でもっとも古いサムエ寺志『バシェ』(sBa bzhed 11世紀か12世紀頃成立)には「すべてのチベットの民は猿の子孫である」と記されている。
この一節は、『北史』「党項伝」の「党項羌、その種に宕昌、白狼あり、みな自らを○猴種という」や『隋書』「党項伝」の「党項、三苗の後なり。その種に宕昌、白狼あり、みな自らを○猴種と称す」を想起させる。(○はけものへんに弥)
党項(タングート)とは誰のことなのだろうか。山口瑞鳳氏によれば、「ドンに順化しない者」を意味する「ドン・グッド」が訛ってタングートになったのだという。ドンはチベットの古代四大部族のひとつである。彼らはチベット族と近いチベット・ビルマ語族であり、西夏の主体民族もタングートだった。四川省康定の西、ミニアコンガ峰付近に分布するミニャク語はもっともタングート語に近いといわれる。(もっとも、ミニャク人が西夏人の後裔であるなら当然のことである)
党項のひとつとして挙げられる白狼については多くの学者が研究を重ねてきた。なぜなら後漢の明帝永平年間(58−75年)に献上された「白狼歌」といういわば一級資料が残っているからだ。イ語、ナシ語、プミ語のほか、チベット語とも比較、研究された。たとえば天を意味する白狼語の「冒」(mao)はム(mu)に対応するが、チベット・ビルマ語の大半が天はムなのである。このように比較していった結論は、イ語、ナシ語、プミ語、チベット語等多くのチベット・ビルマ語族の言語と類似しているのだった。
そして猴祖をもつ白狼と言語的に近接する民族は、どれも猴祖神話・伝説をもっている可能性がある。具体的に見ていこう。
<イ族>
数年前、私は貴州省威寧県のイ族の村で撮泰吉(ツォテチ)という仮面劇を見たことがある。この撮泰吉(ツォテチ)は、農暦の正月三日から十五日まで、豊穣と除災を願って演じられる。
演目の内容は、原始時代からの人類(あるいはイ族)の歩みを劇として表現したものである。つまり最初の部分では、猿から人になったことを表しているのだ。撮泰(ツォテ)とは、猿から人間に変わったその人をさすのだという。
上述のチベット人の猴祖神話には農事を行うと、つまり文明的行為をすると、毛が消え、尾が縮み人間になったという一節があるが、この仮面劇の冒頭でも、荒地を開墾し、耕して種をまき、それによって人間になったことを表現している。
演者はパフォーマンスのあいまに猿の真似をして観衆を笑わせていたが、あながち悪ふざけでもなかった、ということだ。
雲南省楚雄に伝わるイ族創世叙事詩『メミチェツァチェ』には、祖先の猿が人間になる過程が描かれている。
岩だらけの山に猿がたくさん住んでいた。彼らは木の葉を着て、木の実を食べた。老いた猿は平たい石板を起こし、歯が立たない硬い木の実を置いて叩き潰した。また石を打って火を作り、木の根を燃やした。石板の上には水がたまっていたので、叩き潰した木の実を入れ、木の根の火でそれを煮た。煮たものと生のものを比べ、煮たもののほうが甘くておいしかったので、それから煮たものを食べるようになった。
こうして学ぶたびに、猿は人間になっていった。
この説話では、上述のメンパ族の「猴子変人」とおなじく火を用いることによって猿から人間になっている。火で調理したものを食べるか、生のものを食べるか、これはまさにレヴィ=ストロースが『生のものと火を通したもの』で論じたテーマだった。「火を通す」とはつまり文明化することであり、「人間になる」ということである。一方、生のものを食べるのは「野蛮=猿」なのであるが、同時に神的存在ともみなされうるのである。
雲南哀牢山イ族(棚田で有名な元陽)の創世史『アヘシニモ』の「猴子変人」はより進化論的である。
日を追って猿になる。緑色の猿になる。赤色の猿になる。黄色の猿になる。白色の猿になる。黒色の猿になる。(……)猿の群れは繁殖し、隊列を成した。猿ははじめ四足で歩いたが、不便なので体を起こし、二本足で歩いた。立ち止まるのは難しく、止まると倒れた。猿は歩き方を学んだ。(……)猿はだんだん人間になった。(……)イロという猿、人へはまだ変成していない。猿は変化してタテ目人になった。両目がタテに並び、両足は長く、両手は大きかった。72の変化があって人間になった。
四足歩行から二足歩行に変わっていく件は、進化論のパノラマを見ているようである。タテ目というのはわかりにくいが、タテ目が神話にときおり出てくるナシ族のトンパ経典を見ると、つり目をさらにつったような目で描かれている。猿と人間のあいだにタテ目がはいるのは、ナシ族やイ族に特徴的である。
<ナシ族>
ナシ族の神話には、祖先に猿の血が混じっているとしたものが多い。
たとえばモソ人(ナシ族支系。自称ナズ)の神話では、天神の三女ムミニェツァメは英雄(人間)ツォジルジェと夫婦になるが、猿にかどわかされて、浮気をし、猿のような子を生む。夫が帰ってきたとき、彼女は恥ずかしさのあまり、子の体毛を焼く。
雲南・永寧のナシ族の神話もよく似ている。洪水後に生き延びたツォデルゾは、天女ツェフジジメと夫婦になる。夫がいない間にツェフジジメは猿にかどわかされて関係を持ち、人にも猿にも見える二男二女を生む。彼らから子孫が繁栄し、ナシ族になった。
トンバ経典中でも、始祖ツォゼリウは、数々の難題をクリアして天女ツェフボボと結婚する。しかしのち、白と黒が交わる境界上で、天女ツェフボボは手の長い猿と暮らし、子を生む。
この三つの説話はおそらく、おなじモティーフのバリエーションである。人間の始祖は天界の血をひく女と結婚するが、女はいわば間男である猿と浮気をして子を生んでしまう。この猿と天女のハーフから子孫が繁栄し、現在の人類(あるいはナシ族)になっているとしたら、厳密にいえば我々はこの始祖(英雄)の血をひいていないことになる。間男である猿が始祖ということになってしまう。
もちろんナシ族の神話の種類は豊富で、多くの人類起源神話では、猿は登場しない。しかし、こうしていくつも猿祖先(猴祖)のバリエーションが流布しているのは、猿トーテムの名残りではないかと思う。
前述のチベットの猴祖神話もそうだが、かならずしも猿を劣ったものとみなしていないことに注意せねばならない。猿は人間に似ているが、火を用いないので、野蛮な存在である。しかし生で食べるのは、同時に神的な存在でもあるのだ。我々は猿の血を引くからこそ、ある種高い能力を持っているのである。
これとは別に注目すべきは、雲南中甸県(シャングリラ)の白地に伝わる『トンバシャラ伝』の創世神話だ。世界が現れたあと、霧が変成して海となり、七日七晩後、海から雄猿と雌猿のつがいが生まれる。これが人類の祖先だという。なぜ注目すべきかといえば、トンバシャラはあきらかにチベットのボン教始祖トンバ・シェンラブと同一であるからだ。ナシ族のトンバ教=チベットのボン教とまではいかないにしても、少なくとも強い影響を受けたのはまちがいない。チベットの猴祖神話がナシ族の創世神話に影響を与えたのか、チベット・ビルマ語族に属する両者とも、もともと猴祖神話を持っていたのか、そのどちらかである。
<ハニ族>
『ハニ族古歌』に興味深い説話がある。
昔、エンディエとディエマという神が地上に降りてきたが、煙ひとつ立っていなかったので、人となるべきものを探した。まず白い猿を探し出した。白猿はうまく歩けず、鉄の精錬のしかたを教えても会得できなかった。つぎに黒い猿を探し出した。黒猿もおなじく歩けず、精錬ができなかった。最後に黄色い猿を探し出した。黄猿も歩けず、精錬もできなかったが、頭はよかった。そこでエンディエとディエマは黄猿にステッキを渡したので、それをついて歩くことができた。精錬のしかたも覚えた。こうして次第に人間になっていった。
ここでは二足歩行と精錬が、猿が人間になるための条件になっている。猿トーテムの痕跡ははっきりと認められないが、人間がさほど猿とかわらないのに、なぜ抜きん出た存在になったかを言おうとしているようである。
ハニ族古歌はまた、天神オマから人間の祖先に至る系譜を伝える。その4代目のジョニェは全身毛に覆われ、鬼の頭と顔を持つ。猿というより野人に近いかもしれない。6代目のジウがはじめて直立し、8代目ウトゥがはじめて直立歩行する。上の古歌とほぼ軌を一にしている。初期の祖先はまだ人間とはいえず、猿とも野人ともいえる存在であったことを古歌は示している。
<リス族>
リス族の神話では、天神ムプパが泥土を捏ねて一対の猿を作った。それが大きくなって人間になったという。
また別の神話では、太古の昔、世界には神の工匠とその妻、娘だけがいた。それではあまりに世界が荒涼としているので、工匠は山に入り、自分に似せて12個の木の人形を作った。そしてそれぞれに生命を吹き込んだ。人形は森の猿と交わり、メス猿たちは12種の人間を生んだ。リス族はそのうちのひとつである。
このほかお尻にやけどを負った娘が森に逃げ、そこで猿と夫婦になったら、尻の赤い猿と人間の子が生まれた、など、猿の祖先にまつわる小さな話がたくさんある。
リス族には猿が先祖であるという共通認識があるのだ。
<ラフ族>
クツォン人(ラフ族支系)の伝説によれば、大洪水のあと、生き延びた兄弟は(妻がいないので)女を探しに出た。兄は川下で母猿を見つけ、結婚し、たくさんの子どもをもうけた。そこから人類は繁栄した。ほとんどの洪水神話では兄妹が生き延びて、ふたりが近親相姦の関係を結ぶが、この場合、女性がいなかったので、母猿と関係を結ぶのである。メス猿でなく、母猿なのは、この猿にはすでに子どもがいたのかもしれない。また弟のことには言及されていないが、かつて一妻多夫制(通常兄弟で妻を共有する)が一般的であったことを考えると、兄弟で娶ったにちがいない。
<チャン族>
羌(チャン)族の創世神話では、始祖ランピワは猿。ランピワと天神ムパの娘ムチェジュとの間に生まれた子どもがチャン族の先祖である。
チャン族の巫師シピは、死者の魂を送る際、魂を引導していくのは猿だと考える。その猿を祖先と呼ぶという。また儀礼をおこなうとき、巫師シピは猿(とくに金糸猿)の皮の帽子(シュピル)を被り、猿の頭を供えるという。
このようにチャン族において猿崇拝は顕著であり、彼らは上述の党項羌、とくに白狼の直接的な後裔ではないかと思えてくる。
チベットの猴祖神話も、源流をたどれば、数千年前の古羌人の猿崇拝にたどりつくのである。
病を起こすギャルポという精霊も猿の姿で描かれる。
まとめ
14世紀から16世紀にかけて、チベットにはいわば歴史書編纂ブームがやってくる。
唐代、現在のインド西北やパキスタン北部、新疆、さらには中央アジアまでも手中に収めようとしていた吐蕃(ヤルルン朝チベット)は、9世紀半ばに突如瓦解した。そのあとの長い権力不在の時代をへて、ある程度勢力を回復したのは元朝の庇護下のことである。元朝のフビライ汗とチベットのサキャ派の国師パスパ(パクパ)との間には強い絆が結ばれ、チベットでは仏教がおおいに発展した。
そして清の保護国となる前、17世紀のダライラマ五世の時代、ふたたびグシ汗などのモンゴル勢の力を借りて中興を成し遂げる。こうした時代の趨勢のなかで、チベット人のアイデンティティーが高まり、歴史を見直そうとする動きが出てくるのは当然なことである。これら歴史書のなかで、チベット人の起源を示す神話として、猴祖神話が選ばれたのだろう。そのなかでも、完成された猴祖神話が14世紀末に編纂された史書『王統明鏡』第7章である。
しかしこの猴祖神話は、もともと素朴な始祖伝説であったはずなのに、改変され、仏教説話になっていた。猿は観音菩薩から戒を受けて自身菩薩となり、(ときにはターラー女神の化身とされる)岩魔女と契りを結ぶ。これはチベットにタントラ仏教をもたらした8世紀のパドマサンバヴァのように、魔女を降服したという見方もできるだろう。ダライラマも観音の化身とされるので、猴祖神話は太古の昔と現在とをつなげているともいえる。
猴祖神話の原形はかなり古く、猿崇拝、あるいは猿トーテムのようなものがあったのではないかと思われる。そしてそれはチベット人の専売特許ではなく、チベット・ビルマ語族の間に広がっていたようである。
南北朝(439−589)の北朝の歴史について書かれた『北史』の「党項伝」には、宕昌や白狼が猿の種であるとしている。残存する資料から、白狼語はイ語やナシ語、プミ語だけでなく、チベット語とも近いことがわかっている。すなわち、チベット人と近縁の5世紀頃の民族は「猿の子孫」を名乗っていたようなのである。
近親の民族の間に猴祖神話が広がっていた、というのは言い換えればチベット・ビルマ語族(古羌人)の間に広がっていた、ということである。実際、上述のように、イ族、ナシ族、ハニ族、リス族、ラフ族、チャン族などに素朴な猴祖神話やそれに類する伝説を見出すことができる。チベット人の猴祖神話だけが仏教説話に改変されていたのだった。
このように考えると、チベット人の猴祖神話は非常に特殊な民族始祖神話であるが、じつは数千年というタイム・スケールのなかで繰り広げられる、猿崇拝、あるいは猿トーテムをもつチベット・ビルマ語族(古羌人)の拡散のなかで結実したものであることがわかってくるだろう。