ラカイン礼賛
正真正銘のナッカドーにはさまざまな精霊が憑依する。
7 ナッカドー(霊媒)
(1)自動書記するナッカドー
シャーマンと会うときは、いつもなにか見えない力によって導かれているような思いにとらわれる。このときもそうだった。ナッカドー(シャーマン)に会う予定も意思もなかったのに、気がついたらムラウーの町外れの竹造りの高床式家屋を訪ねていた。家のすぐ裏にはムラウー王朝の初期に作られた苔むしたレ・カウ・ズィー(Let kauk zey)の門があった。
宵闇が迫っていた。サンダルを脱いで梯子を上ると、闇の中にナッカドーがいるようだった。目が慣れるまで、五十歳手前の女性ナッカドー、タ・セイン・プル(The sein pru)の姿をはっきりとは確認できなかったのだ。しだいに年齢よりずっと若く見えるナッカドーの温和な表情がわかるようになった。
私がナッカドーに興味をもっている旨を伝えると、彼女はナップウェ(精霊儀式)について解説をしてくれた。解説というより、さまざまな儀礼中の歌を披露してくれた。まるでオペラ歌手の生歌を庭で聴くかのようだった。歌唱力があるというより、感情のこもった生きた歌を彼女はうたってみせた。
「なにかハイテンションだな」と私は感じた。
ナッカドーはカセットデッキから音楽を流しながら(彼女自身がナップウェを開いたときに録音されたもの)シャン・ネッ(チン・ナッ、すなわちチン族の精霊)の踊りを舞い、歌った。音楽もチン族の音楽だった。
彼女はハイテンションだったので、こちらからとくに頼んだわけでもないのに、突然部屋で歌い、踊りだしたのである。いくらか躁鬱の気があるのかもしれない。彼女の歌と踊りは質が高く、すばらしかったけれど、私は正直なところ面食らってしまった。
踊り終えたあと、彼女は呼吸も乱さず、部屋の隅から大学ノートを取ってきた。それには乱雑になにかが書きなぐられていた。文字には見えない。
「これは何ですか」と私はおそるおそる聞く。
「これはインド人からのメッセージです」とナッカドーはこたえる。
やはり文字なのだ。いわゆる自動書記(automatic writing)である。ぐちゃぐちゃに書きなぐったようだけど、彼女はそこからメッセージを読み取ることができた。インド人というのはポンナ、つまりブラフマン(バラモン)のことだった。ナップウェ(精霊儀礼)のなかにポンナの霊が出てくるので、インド人の登場は奇想天外というほどではない。
私は20世紀最大の霊媒といわれたアイリーン・ギャレットを思い出していた(ちょうど伝記を読んでいたのだ)。アイリーンは半覚醒の状態にあるとき、もうひとりの人格が現れ、死者と交信した。この人格はアラブなまりでしゃべったという。ナッカドーにとってのインド人は、アイリーンにとってのアラブ人とおなじだった。ナッカドーが変成意識状態にあるとき、インド人が憑依し、メッセージを自動書記という方法で伝えるのである。
「それじゃあポンナがあなたの守護霊?」
「いえ、わたしの守護霊はシュエ・ビャインです」
シュエ・ビャイン(金色の白鷺)は虎に乗った男の神だった。虎に乗る金色の鷺はどうもうまく想像することができない。優雅で、高貴な神なのだろう。シュエ・ビャインの踊りをおどるとき、ザポエという黄色の伝統的な着物を着る。その姿は王子のようであるという。
彼女には先生やグルと呼べるような存在はなかった。12年前、精神的な病気にかかってしまった。そのときにシュエ・ビャイン神が彼女のもとにやってきたのだという。この病気とはわれわれがいう巫病(shamanic sickness)である。狂気の一歩手前まで行ったからこそ彼女はナッカドーになれたのである。なりたいからといって、なれるようなものではない。
ナッカドーに憑依する精霊は、シュエ・ビャインやポンナのほかに、チン族の精霊ナッ・アウンシーやヤカ(夜叉)兄弟、市壁の門近くに住む女性の精霊ドナフーなどだった。ナッカドーが彼らを呼ぶこともあるが、ふだんは彼らのほうからやってくるのだという。
精霊たちと交信して失くし物を探したり、健康について尋ねたりした。二度目に彼女の家を訪ねたとき、遠くレムロ川上流(チン州とラカイン州の境界)からの患者が来ていた。この中年女性もまた、ナッカドーのヒーリング能力についての評判を聞き、わざわざ小船に乗ってムラウーまで下りてきたのである。
ミャンマーのナッカドーは最近ゲイが多く、ナッカドーが全国から集まる8月のタウンビョン精霊祭(マンダレー付近)はいまやゲイ・フェスティヴァルの様相を呈している。しかし彼女のようなピュアなシャーマンもまた数多く残っているのだ。(もちろんゲイ・シャーマンのなかにも本物のシャーマンがたくさんいる)
ミャンマーといえば仏教国というイメージが強いけれども、じつは民衆レベルでは精霊信仰が根強く残っていて、それによって生活が支配されているといっても過言ではないのだ。
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