マグ人とカマンチ 亡命王子の悲劇                      宮本神酒男

 仏教徒としての誇りをもつ現在のラカイン人は認めたくないかもしれないが、アラカン(ラカイン)人といえば泣く子も黙る略奪者にして海賊、奴隷売買者のマグ人のことだった。マグ(Magh)とはブッダの時代に栄えたマガダ国のことである。アラカン王は、先祖はブッダの親戚だと主張していたのだ。ムラウー王朝時代、マグ人とポルトガルの奴隷商人はベンガル湾の河川地区からラカインにかけて荒らしまわり、とらえた奴隷をオランダの東インド会社が経営する奴隷市場に送った。このなかからはアラカン国の宮廷警護をする者たちもいた。17世紀のはじめに日本からやってきたキリシタン侍たちが宮廷警護の職にありつけたのには、こういった時代の潮流があったのである。

 ラカインのイスラム教徒のなかにはカマンチ(Kamanchi)と呼ばれる人々がいる。彼らは1660年、ムガル帝国のベンガル太守(在16391659)シャー・シュジャとともにラカインに亡命してきた人々の子孫である。彼らのの多くは現在ラムリー島に居住しているという。

 シャー・シュジャはタージマハール廟を建てたことで知られる5代目皇帝シャー・ジャハーン1世(
16281658)の二男として生まれたが、権力志向の強い三男のアウラングゼーブ(6代目皇帝 16581707)によって追い立てられてしまった。

 当時のベンガル人からすれば、マグ人(アラカン人)は汚くて野蛮な人々というイメージがあったが、シュジャはアラカン王に庇護を求めた。さらにメッカへ巡礼に行くための船の建造を求めた。おそらくこれはアラカンに長居はせず、ムガル朝の財宝の一部を置いていくということを示したのだろう。しかしポルトガルのガレー船でやってきた亡命王族はそれほど豊かであるように見えなかった。しかもムガル朝はシュジャに莫大な懸賞をかけたのである。

 8か月たっても船の建造に着手さえしないことに業を煮やしたシュジャは、200人ほどの家来と地元のイスラム教徒(ロヒンギャの先祖だろうか)を集めて王室の転覆を謀った。しかし機密が漏れ、シュジャは逃げる。数週間後彼は捕えられ、処刑されてしまった。シュジャの娘たちはハーレムに入れられ、長女はアラカン王との子供を産んだとされる。

 シャー・シュジャを追っていたムガル朝のアウラングゼーブは、シュジャが殺されたと聞いて激怒した。彼はベンガル総督のシャイスタ・ハーンに命じてアラカンを攻撃させた。こうして現在のラカイン州とバングラデシュのチッタゴン区域をあわせた長くて広大な領土をもつアラカン国はムガル帝国の支配下に置かれてしまう。このイスラム朝廷は1784年までつづいた。


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