ラカイン人の起源 

 アラカンのもう一つの有力な集団はラカイン仏教徒である。957年、モンゴロイドの集団は都だったウェータリーを一掃し、チャンドラ朝の最後のヒンディー王、スーラ・チャンドラを殺害した。彼らはウェータリーを破壊し、自分たちの王を玉座に据えた。モハメド・アシュラフ・アラムはつぎのように記す。

「数年のうちにベンガルのヒンドゥー教王朝はパーラ朝を確立することができた。しかしウェータリーのヒンドゥー教王朝は国を建て直すことができなかった。ウェータリーを侵略し、移住してきたチベット・ビルマ語族があまりに強大で、人口的にも圧倒していたからだった。彼らはアラカンをインドから分断し、現代の(執筆当時の)インド・ビルマの東側の居住者と混交させ、ラカイン・アラカン人として知られるインド・モンゴル種族を作り出した。この新しい種族の誕生は一回の侵攻によってもたらされたものではない。しかし957年がアラカンにおけるラカイン人の登場の年であり、新しい時代のはじまりであると言ってもいいかもしれない。

 ラカイン人は略奪、暴力、残酷さ、誘拐、奴隷制、海賊行為で知られた野蛮な人々であり、アラカンのマグ(Maghs)として名が通るようになった。歴史研究家のアランギル・セラジュディンはつぎのように記す。「彼らの残虐さはのちの時代の、つまり、デカン高原にあったマラーター帝国(marauders)のバルギ(略奪者 bargi)である軽騎兵と比べられるほどで、ベンガルではその名が轟いていた」。

 シハブディン・タリッシュはつぎのように述べる。「彼らは手あたり次第、ヒンドゥー教徒であろうとムスリムであろうと、男であろうと女であろうと、小さかろうと大きかろうと、多人数であろうと少人数であろうと、両手のひらに穴をあけ、穴に細い籐(とう)を通し、船のデッキの下に投げ入れるのだった」。

 ムガル帝国がインドを支配している頃、ポルトガル人がチッタゴン、サンドウィップ、アラカンに居住区を確立したあと、ラカイン・マグ人は、ポルトガルの海賊と手を結び、ベンガルのムガルの領域で略奪をしはじめた。こうしてマグ人・ポルトガルの海賊行為はベンガルの平和に対する脅威となった。

 脅威でなくなったのは、1666年、総督シャイスタ・ハーンの指揮のもと、ムガルがアラカン人支配下のチッタゴンを制圧したときのことだった。1666年はアラカン帝国没落の年となった。[アラカン・マグ人はチッタゴンを去り、二度とこの地を占領することはなかった。チッタゴンはそれ以来ベンガルの、現在はバングラデシュの一部である] しかしながらマグ人・ポルトガルの海賊は18世紀の間も続いていた。歴史家
GE・ハーヴィーはつぎのように述べる。

「1794年に発行されたるネルのベンガルの地図はバッカーガンジの南の地区を、マグ人(アラカン人)に荒らされた地域としてしるしをつけている」。

 アラカンの海賊はマグ人もフェリンギ人(ヨーロッパ人のこと)も、水路を使い、ベンガルを襲うのが常だった。ムハンマド教徒(イスラム教徒)はヨーロッパで被害をこうむることはなかったが、ここでは圧迫されつづけた。長い間、襲撃は繰り返されたので、ベンガル人の生活は日に日に荒廃し、抵抗する気力も失せてしまった。チッタゴンとダッカを結ぶ道に沿った川の片側には、家が一軒も残っていなかった。バクラ地区(バッカーガンジとダッカの一部)にはたくさんの家があり、耕された畑があり、キンマの実にかかる税金から膨大な収入を生み出していた。この地区は略奪と拉致の箒によってきれいに一掃されていた。彼らには住む家が残されていなかった。その地域に光がともされることはなかった。シャイスタ・ハーンはフェリンギの脱走兵たちに、マグ王は彼らにどれだけの報酬を払っているのかと聞いたことがあった。彼らはこたえた。

「われらの給料はムガル帝国そのものです。ベンガル全体が封土なのです。税の取り立てや宮廷官吏に悩むことはありません。小作料だけに課税すればいいのです。この四十年間、戦利品の分配の書類だけ持っていました」

 何世紀も野蛮な行為をしてきた結果、アラカンのマグ人は悪名高くなったので、彼らは自分たちのことをラカイン人と呼び始めた。ラカイン人は仏教徒で、話す言葉はやや音声上の違いがあるものの、純粋なビルマ語だった。

 


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