アラカンにおけるムスリムの影響
ムスリムが支配する西のインド、仏教徒が支配する東のビルマにはさまれたアラカンは歴史上の異なる時期に、ヒンドゥー教、仏教、イスラム教に支配される王国として独立を維持してきた。ビルマのアヴァ王朝の脅威が高まるにつれ、アラカンは西方に保護を求めるようになった。1203年にベンガルがムスリム国家となったあと、アラカンにおけるイスラム教の影響は著しく大きくなり、1430年にはムスリム属国が確立された。
1404年にビルマによって退位を余儀なくされたアラカン王はベンガルの首都ガウルに庇護を求め、失くした王位を取り戻せるよう援助を請うた。ベンガルのスルタンであるジャラルッディン・ムハンマド・シャーはワリ・ハーン将軍率いる5万人の部隊をアラカンに送った。ワリ・ハーンはビルマ軍を駆逐し、彼自身がアラカンを支配下に置いた。そしてアラカンの宮廷言語としてペルシア語を導入し、ムスリム裁判官(カジス)を任命した。
しかしジャラルッディンはサンディ・ハーン将軍率いる第二の軍隊を送り、ワリ・ハーンを失脚させ、亡命していた君主(スライマーン・シャーの称号を得ていたモン・サウ・ムワン)を1430年にアラカン王に復位させた。モン・サウ・ムワンのムスリムの兵士たちはアラカンに定住し、ムラウン(Mrhaung=ムラウー)にサンディ・ハーン・モスクを創立した。ムラウー王朝の間、彼らは陰で王朝を操ることとなった。アラカンの王たちは1638年まで、ムスリム式の名前や称号を名乗ることになった。ビスヴェースワル・バッタチャリヤはこうした情勢をつぎのようにまとめている。
「ムハンマド教の影響があまりに強く、アラカンの王たちは仏教徒であったにもかかわらず、ムハンマド教徒になったかのようにふるまった」。
1660年、ムガル帝国の皇子シャー・シュジャーはアラカンへ逃げた。この重要なできごとをきっかけにアラカン王国へのムスリムの移住が大きな波となった。ムハンマド・エナムル・ハク博士とアブドゥル・カリム・シャヒティヤ・ビシャラドの共同執筆による『アラカン宮廷1600―1700年のベンガル文学』のなかで彼らは「アラカンの国王たちはカレーマ(イスラム信仰の告白)のアラビア文字の刻印がある硬貨を発行した。国の紋章にもアラビア文字でアキムッディン(神による地上の支配の確立)の言葉が刻まれている」と述べている。アラカン宮廷が多くのイスラム教の習慣や言葉を採用したのは、それほどイスラム教の影響の大きかったということである。この時期から国のすみずみまでモスクが建てられはじめ、イスラム教の習慣やマナー、実践が浸透していった。
1685年から1710年まで、アラカンの政治権力は完全にムスリムの手の中にあった。アラカンにおけるイスラム教の支配と(あるいは)影響はおよそ350年つづいた。それが終わったのは1784年12月28日にビルマのボードー・パヤー国王によってアラカンが侵略され、占領されたときだった。アラカンでイスラム関係のすべてが壊されたこと、二大コミュニティー、すなわちロヒンギャとラカインの間に不和の種がまかれたことに対しては、ビルマ国王に責任があるだろう。
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