西暦1000年までの歴史 アラカン 

 アラカンのもっとも早い定住者はおそらく東南アジア、インドネシア、オーストラリアに存在するアボリジナル文化と関係があるだろう。しかし考古学的な遺物を残した初期の定着した王国はガンジス渓谷からやってきたインド・アーリア系のグループで、紀元前3000年に遡ることができる。彼らが到着した時期、ムル(Mru)、サク(Sak)、クミ(Kumi)やほかのチン族などの少数民族はすでにこの地域に定着していた。そして離れた丘陵地区でも定着していた。

 19世紀の英国の歴史家HH・ウィルソンは10世紀までアラカンで優勢だった文化はインド文化であったこと、そしてそれからビルマ文化との間に交流が生まれことを示した。パメラ・グトマンはウィルソンのあとを継いで、アラカンの歴史を理解する唯一の方法は、アラカンをビルマの世界の一部として見るより、インドの一地区として見るべきではないかと論じた。とくに海岸線の高い山脈と通過するのが困難な地域があり、ベンガル湾のつながりと比べ、現代のミャンマーの他の地域との陸上での交流はむつかしかった。

 グトマンは9世紀以前のアラカンにいたのがだれであるにせよ、現在のミャンマーにいる民族集団よりもインドにいる民族集団との関係のほうが民族的に深い関係にあると示唆している。言語的にインド・アーリア語族のベンガル・アッサム支系に属するロヒンギャは、この地域の9世紀以前の居住者の子孫かもしれない。ロヒンギャのルーツがインド・アーリア語族であることは、アーナンドラ・チャンドラ(8世紀)のヒンドゥー寺院の碑文からあきらかである。それはインドの碑文や建築物ときわめて近い。

 インドとの関係を反映して、アラカンにおけるもっとも早い支配者はヒンドゥー教徒だった。交易を通じてインド、アラブから7世紀にはイスラム教がやってきたが、ヒンドゥー教徒、仏教徒、イスラム教徒がともに暮らす複数の宗教が共存する地域となった。こうした状況下で、ロヒンギャの言語はアラビア語やペルシア語を取り入れて発展してきた。そしてベンガル語の文字を採用し、よりベンガル語に似てきた。同様に、一つの民族集団として、ロヒンギャは西暦1000年までにアラブやペルシアの要素を吸収してきた。のちには、ベンガルと関係があるということは、北インドとの通常の交流の一部として、ベンガルとムガール帝国両方の民族的影響を受けるということを意味した。

 ビルマ人の権力はイラワジ川中央部に結集し、アラカン王国とビルマ王国の間の交流は増す一方だった。ラカイン民族集団はアラカン山脈を越え、西暦1000年頃にアラカンに定着した。そしてビルマ人のパガン王国がイラワジ川中央部を支配する時期がつづいた。西暦1000年頃からは、アラカンはベンガルや北インドと同様、ビルマの残りの地域とも交流を深めていった。


⇒ つぎ