ロヒンギャ:ミャンマーの知られざる虐殺の内幕
アジーム・イブラヒム
西暦1000年から1824年まで ビルマ
ビルマ族は着実に中央ビルマでの影響力を強め、1100年までにはモン族を征服した。こうして強大なビルマ族のバガン王国が出現することとなった。そしてこれがおそらく最初の大きなミャンマーにおけるビルマ族の国である。結果としてのちの多くの支配者が彼らの家系をこの時代にまでたどることになる。それはビルマ全体を統治する正当性をもとめてのことである。この六十年の軍事政権さえこの時期の重要性を強調し、バガン時代にさかのぼれるパゴダに再建に相当の出資をするほどだった。
バガン王国は最初の国王アノーヤータ王(1044―1077在位)のもとでモン族とピュー族に分かれた地域の統一をはかった。新しい政権は国教としてテーラワ―ダ仏教を選び、おびただしい数の宗教的建築物を建て、古いアニミズム信仰の神々を仏教の枠組みのなかに入れた。国民の大半は仏教を選んだが、地域に残る他の宗教信仰を排除するほど絶対的ではなかった。文化的な多元主義はかなりの度合いで残り、モン族共同体はとくに時代の文化発展に多大なる貢献を果たした。
13世紀後半までにバガン王国は仏教の保護者として大きな存在となった。仏教寺院を建設するなど国力をそそいだ結果、持続的な宗教共同体が現れるにいたった。しかし宗教的建築物や芸術、僧侶には多大なコストがかかり、これが王国の経済基盤を侵食していった。モンゴル軍の1286年の小さな侵略(ベトナムからタイまで東南アジアへの一連の攻撃の一部)によって、王国は突如として倒れ、いくつもの小さな都市国家に分かれた。
一つのまとまりがあったビルマは分裂し、小さな統治組織の集まりになった。後継の国々のほとんどは、バガン王国時代における正当性を見つけようとした。同様に、建築や芸術に関して言えば、インドや東方の地域と共通の価値観を持っていたが、次第に土着のビルマ人の感覚にあったものへと移っていった。
さて、アヴァ王国(1287―1752)はチャウッセ周辺のビルマ上部を支配した。時間がたつに従い、それは圧倒的な力となり、1636年までにどうにかイラワジ渓谷を統一した。この拡大はモンゴルの侵略のあと北ビルマを支配下に置いたシャン王朝の力がこの地域から仏教の影響を排除しようとしたときに終わった。刷新されたアヴァ朝はふたたび仏教が広まるのを許した。支配者の多くは仏教徒で、さらに多くの国民が仏教徒になった。
アヴァ朝を引き継いだのはコンバウン朝(1752―1885)だった。この時期、メジャーな地域パワーとしてのビルマが出現した。マンダレーも1857年に新しい国の都として建設された。この意見をはっきり言う、攻撃的な王朝は隣接するシャムとの戦いに勝利した。そして富と権力をパワーアップしたこの王国は1784年にアラカンを併合した。
しかしこれが英国との戦争の引き金となった。1826年までにビルマはアラカンを失うことになる。ビルマの残りの地域がすべて併合されるのは1886年のことだった。
宗教に関して言えば、19世紀までに国家と宗教の間の融合が進んでいった。国王自身がアラカン征服のあと、英国に占領されたすべての仏教寺院の守護者を自認していたのだ。英国が国全体を征服したあと、国家と宗教の結びつきが壊れてしまったが、ビルマの仏教徒の国民にとってそれが最も重要な問題でありつづけた。
一方の英国は、組織化された仏教や修理されないまま放置された多くの仏教寺院に対して冷淡だった。英国人は植民地の統治に関しては世俗的な見方をしていた。多くの場合は必要から、仏教共同体内における宗教的実践や寺院の規律についての論争には巻き込まれないようにしていた。この冷淡さによって、寺院の構造は土台から弱まることになった。
寺院の規律を監督するサンガのトップの指名を英国人が拒否したので、聖職階級はテーラワ―ダ仏教に対して批判的になり、その関係はばらばらになった。仏教徒の一部はこの英国の行動を、キリスト教を推進するための計画ととらえたが、より賞賛すべき説明はシンプルに、興味がなかったからというものだった。結果として仏教団体の声は断片的になり、失われてしまった。初期の愛国運動者は、仏教から何のインスピレーションを得ることがなかった。なかにはビルマの仏教の伝統を守るため前提条件として独立を考えるものもいた。
多くの仏教支持者から見れば、仏教の保護に失敗したということは、英国の統治の失敗だった。統治者として、ビルマの統合的な文化の一部である仏教を守るのは義務であり、それを推進することに失敗した英国人は批判されて当然だった。こうした見方はテーラワ―ダ仏教の考え方から生まれたものである。つまり宗教の勢力がどれだけであるかは、それがどれだけ保護されているかによるのだ。
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