西暦1000年から1824年まで アラカン 

 歴史上のアラカンは、11世紀以降中央ビルマの諸王国と交流を持ちはじめていた。公式には18世紀終盤まで、ビルマからは独立した存在だった。アラカンにおいてロヒンギャが長く支配的存在だったが、西暦1000年頃、多数の仏教徒のラカイン人がやってきて、彼らが取って代わった。ラカイン人はビルマ人と共通のチベット・ビルマ語族の先祖から分かれてきた民族だった。このことは考古学的遺物にも反映されていた。たとえばこの地域で発行された貨幣の歴史がそうである。地域大国だったビルマ人のバガン王国の時期と一致するのである。

 ラカイン人がアラカンにやってきたあと、バガン王国がその絶頂期にある間、中央ビルマの諸王国と近い関係を保ちながら二世紀が過ぎた。バガン王国が瓦解したとき、アラカンは独立を取り戻し、その後のほぼ六百年、ビルマやベンガルの近隣諸国と戦争や論争、交易をおこなった。13世紀から17世紀の終わりまでの間、ビルマはビルマ人が支配したが、アラカンは独立していた。短い期間、アラカンの王は現在のバングラデシュの一部地域を支配下に置いた。

 この間ムラウー(ミャウー)王朝はアラカンを支配し、さまざまなチン族集団(ムル、サク、クミなど)やロヒンギャ、ラカイン族、そしてヒンドゥー教、イスラム教、仏教のさまざまな信仰を統御していた。イスラム教はすでにアラカンにおいて重要な存在となっていた。ムラウー王朝の時期、ラカイン人が仏教徒としてのアイデンティティをかためる一方で、早くから定住しているインド・アーリア系(ロヒンギャと思われる)の子孫のなかでイスラム教は圧倒的に優勢になっていた。

 宮廷はベンガルやインドのほうばかりを見るようになった。そして王朝の支配者の大半はイスラム教徒だった。多くの宮廷の官吏は北インドからリクルートされていた。同様にムスリムの地域からやってきた傭兵たちは地域の軍隊やライバルのベンガルの軍隊に雇われていた。1660年代にやってきたカマンと呼ばれるムスリムの人々は、アフガニスタンでリクルートされた傭兵だった。

 彼らの軍隊が敗れたあと、彼らは地方の言葉を採用し、そして現在、ロヒンギャと違ってミャンマーの中の受容された民族グループの一つとなっている。しかしロヒンギャはこの時代のアラカンの混合した民族の重要な一部分だった。19世紀、英国人は地元のムスリムが自分たちのことをロヴィンゴーあるいはルーインガと呼んでいると報告している。より重要なのは、1799年にすでにフランシス・ブキャナンがアラカンのルインガに言及していることだ。

 ブキャナンはこの年、アラカンのネイティブはヤケインかルーインガだろうと述べ、二つの主なコミュニティーがあると示唆している。一つは「アラカンに長く定住しているモハンメダンで、自称ルーインガ、アラカンの先住民である」。もう一つは「ブッダの教えを信仰しているラカインである」。

 彼はまた外部との接触が少ないため、ラカインの言語は、数回の大変化を経たビルマ語よりずっと純粋であると記している。これはラカイン人が西暦1000年頃アラカンにやってきたあと、民族的混合が見られたものの、外界との接触が比較的少なかったことを強く示している。1811年の「クラシカル・ジャーナル」は数多くの東アジアや中央アジアの言語の比較リストを載せている。そのうち三つの言語はビルマ帝国で話されているもので、ルーインガの言語に直接言及している。

 1815年ドイツ拡大地域言語概論(JS・ヴァテリ著)もまた明確な言語を持った民族集団としてのロヒンギャ(ここではルーインガ)の存在に言及している。

 このように当時出版された一連の著作のなかに、19世紀、アラカンにロヒンギャが存在したことを示す証拠が山ほどあるのだ。これらの著作には地域の民族構成に興味を示すような偏った政治的思惑はない。彼らにはロヒンギャのような集団の存在を作り出すいかなる理由も持っていない。いわんやそのような集団を抑圧することに興味を持ってはいない。

 すべてがアラカンに明確な言語を持った大きな民族集団、すなわちロヒンギャと特定できる集団がいたことを示している。この三者(ブキャナン、ヴァテリ、クラシカル・ジャーナル)の報告は、ビルマ人がアラカンを統治した短い期間(1784年から1824年)に書かれたものである。当時はムスリムが迫害を逃れようとして流出している時期でもあった。

 18世紀末までに中央のビルマ人王国のコンバウン朝はシャムとの戦争に成功して強大な国になっていた。ベンガル王国が弱体化したタイミングを選んで彼らはアラカンに勢力を伸ばした。ビルマ人の攻撃の動機のひとつは、アラカンの仏教徒の純粋性を強め、危険きわまりない西方のイスラム諸国との結びつきを減少させることだった。現実として、アラカンの征服は英領インドとの緊張を作り出すことになった。

 ビルマがアラカンを併合したあと、英国はより広い地域に関心を持つようになった。そして軋轢が生じるようになった。一つの国の一部を征服するということは、残りの地域からの攻撃を恐れなければならないということだった。この恐怖ゆえ、何かが起きたとき、それを口実にさらなる征服がはじまることになった。結果は予見しえた。英国は1880年代半ばまでにビルマの領土の全体を併合した。

 


⇒ つづく