ロヒンギャ:ミャンマーの知られざる虐殺の内幕 

アジーム・イブラヒム      

 

植民地時代(18481948) 

アウトライン 

 この時点まではビルマの歴史とアラカンとの歴史は大きく隔たっていた、あるいは少なくとも隣国同士であること以上のものはなかった。しかし1784年からは二つの国は文字通り不可分の関係になった。1826年に英国がアラカンを征服して以来、ビルマ国王との間の緊張はつづいていた。1852年に第二次英ビルマ戦争が起こり、ビルマ南部を英国が支配するという結果になった。そしてビルマ上部が完全に孤立することになった。

 第三次英ビルマ戦争が1885年に終了し、1886年までに英国は「行政上のビルマ」(基本的にヤンゴンとエーヤワディー地区)と「フロンティア・エリア」との間に公的な区分けを設けた。これはつまり大多数のビルマ族が支配する中央地区と民族集団がパッチワーク状に並ぶ外縁の地域をはっきりと行政的に分けたということである。こうした厳密な行政区分は国内の境界線を作り出し、国内の移動に制限を設けることになった。

 ビルマは1937年にインドから分離するかたちで行政上の省となった。国境は1824年―1826年の戦争より前に存在した国境を基本として引かれた。新しい行政単位はこうして、わずか十年後に誕生する新しい独立国家ビルマに、アラカンが組み込まれることにつながっていくのである。この純粋に政治的な決定によって、現在私たちが置かれている状況が生まれることになる。

 ビルマの民族主義者は英国の支配を恨み、不安定をもたらしたのは英国が仏教の聖職者を支援してこなかったからだと考えている。以前の諸王国のもとでは、世俗の権力者が仏教を保護することによってその力を得るという側面があった。ビルマの民族主義者にとって英国人は非合法の支配者だった。なぜなら彼らは国の政治文化の要求を満たすのに失敗し、ビルマ文化の不可欠な部分としての仏教を合法的な支配者であれば守り、推進しなければならないのにその期待を裏切ったからである。

 英国人が植民地の行政職員や行政機構にインド人を雇用するのを好んだことが状況を悪化させた。結果として仏教徒の中で、とくにビルマ人コミュニティーで反英国感情が強くなった。一方で多くの少数民族、とくにムスリムのロヒンギャとクリスチャンのカレン族は親英国的だった。宗教、民族性、反英国感情が結びついてダイナミックな独立運動に深刻な影響を与えた。それは究極的に現在の我々が知るミャンマーの登場につながっていく。

 そしてすぐにそれは影響を与えた。独立運動はときには民族の性格をそのまま表すのだ。たとえば、1938年の反植民地の暴動は英国の権力に対してだけでなく、ムスリム共同体にも向けられていた。これらの暴動は不成功に終わった1930年のサヤ・サンの反乱につづいて起こったものである。反乱はあきらかに植民地前のビルマの政治体制に戻すのが目的だった。宗教の問題に沿った意見の深い溝に不和の種は植えられた。

 本当の危機がやってきたのは第二次大戦のときのことだった。日本がこのエリアに侵攻したとき、ビルマは戦争に突入した。ビルマの民族主義者の一部は日本の侵攻を歓迎した。インド国民会議と同様に、大英帝国の敗北が独立への第一歩とみなしたからである。しかしながらロヒンギャは英国に忠誠を誓い(ほかの非ビルマ民族の多くと同様)ロヒンギャとラカインの間に大きな軋轢が起きてしまったのである。

 この結果、307の村が破壊され、10万人のロヒンギャが命を落とし、8万人がこの地域から脱出することになってしまったのである。問題をさらに深刻化させたのは、英国の側についたことを罰するため、日本は複数回ロヒンギャを虐殺したという。さらに1942年に各民族の暴動が起こり、その結果、アラカンの昔からの民族つぎはぎだらけの状態が一掃されることになった。北のムスリムと南の仏教徒に分けられたのである。

 つぎに英国は移転させられたロヒンギャの中から兵士を募った。そして同胞を探しながら、北アラカンのムスリムに独立を約束し、戦争に貢献してくれたことへの感謝のしるしとして国家的規模のムスリム・エリアの創設を請け負った。しかし多くのほかのケースと同様、英国人は大きな歴史的なミスを犯しつづけた。日本に勝ったあと、やはり約束を守らなかったのである。

 1947年、一部のロヒンギャは彼ら自身の軍隊を作り、アラカン北部を新しくできた東パキスタン、のちのバングラデシュに組み込む道を探った。これは失敗に終わった。ビルマが1948年に独立を達成したあと、一部のアラカン・ムスリムはラングーン(ヤンゴン)にある憲法制定会議にマウンドーとブーティダウン地区を東パキスタンに組み込むよう誓願をつづけた。

 これは長期間にわたるおそろしいできごとを予兆していた。ビルマの権威者たちはアラカンのムスリムたちが新しいビルマの政権に敵愾心をもっていると思い込んでしまった。そして彼らがよそ者で、異なる国に忠誠心を持っているとみなしてしまった。仏教徒だけが新しい国の国民であると信じられるようになったのである。こうした姿勢はビルマ共産党が1948年以降新しい国家を覆そうと試みたことから強化された。

 この時期の解放を求める闘いの一面を見ると、より複雑である。三十人の志士(アウン・サン将軍を含む)に率いられたビルマ独立軍(BIA)はもともと英国と戦う日本軍を助けるために結成されたものである。1942年から1945年にかけて彼らは日本のために戦った。とくに英国や米国を助け、自国への供給ラインを死守していた中国がおもな相手だった。加えて英国はインド国軍のサボタージュ行為を気にしていた。多くのビルマ人民族主義者は英国軍を弱める道具として日本軍は役に立つと考えていた。アウン・サンは1941年に日本へ行き、1943年に日本軍がビルマの独立を宣言したとき、最高司令官の地位に就いていた。

 1944年までに日本軍の抑圧と暴力は増大し、多くの独立を求めるリーダーたちは二つの巨悪のうちでは英国のほうがマシと考えるようになった。そして日本軍が広大な領域で行われている戦争を失いつつあるのはあきらかだった。アウン・サンは英国と交渉を始め、独立運動はサイドを変えることになった。

 そして1945年3月27日、日本軍に対する反乱が起きた。ビルマの民族主義者にとってこれはもともと「レジスタンス記念日」だったが、のちに独立したビルマへの重要な第一歩となる「国軍記念日」となった。ほかの者にとっては、日本軍の敗北があきらかになってから忠義を尽くす相手をかえるのは、日和見主義的すぎたが。この反乱における生まれたばかりの軍の象徴的な役目は、1948年以降の陸軍の考え方だった。国を保証してくれるのは軍の強さだけだった。そしてそれは国内の強い脅威と戦わなければならなかった。

 1945年8月に日本が降伏したあと、BIA(ビルマ独立軍)は1946年から1948年の独立までの間、英国支配に対する低レベルの反乱を起こした。独立に関していえば、それは新しい国軍の中核となるものだった。

 

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