アラカンの人口統計の変化 

 不幸なことに1824年から1826年にかけてアラカンに実際にだれが居住していたかという問題が、過激主義仏教徒が語っている主なテーマとなっている。英国人によるビルマ征服の時点で、民族集団が現代のミャンマーの一部であったかどうかという論議がぐるぐると回っているのだ。「英国による征服」が、民族集団がどの地域に属するかについて、歴史的な意義深い重要な時点として選ばれたのである。過激主義仏教徒は、ロヒンギャは英国の植民地政策の影響で、近年になってこの地域にやってきた新参者にすないと主張する。この章では彼らの主張を詳しく検証し、デレク・トンキンやジャック・ライダーといった書き手の議論についてもじっくり考えていきたい。

 19世紀の植民地大国である英国は、植民地の人口統計を把握する必要があった。そして実際たびたびこの地域で調査をおこなった。植民地大国の利益のためにそれは実施されたが、アラカンやビルマのその他の地域の人口統計の変化に関して、情報は大いに役に立ち、十分な証拠を提供した。しかしまた不運なことに、いくらか矛盾が生じた。

 すでに見たように、チャールズ・ペイトンは1825年から翌年にかけてアラカンで大がかりな調査を断行した。表面的には英国植民地の官吏として働きながら、英国の極秘情報機関のために情報を集めていた。彼のミッションがどういうものであろうと、1826年に彼はアラカンの魅力ある生活について書き残したのである。彼はさまざまな村のリーダーたちの民族性を詳しく調べた。そして6万人のラカインの仏教徒、3万人のムスリム、1万人の他の民族グループが住んでいると推計した。

 ペイトンはのちの英国のやりかたのように、民族性と同様に宗教を基礎として集団の認定をおこなった。彼はムグ人をラカインとして知られる集団と同一と考えた。しかしムスリムを民族集団として小分けすることはなかった。しかし重要で興味深い識別を彼は実施していた。地元の貴族(ムッサラマン・シルダルス)は、北部インドのことばを話す人々と同一だった。地元の(おなじ民族グループの)農民はヒンドゥスタン語とは関係のない言語を話しているように思われた。これはわれわれの知っていることと一致している。アラカン王国のエリートは、ベンガルと強い政治的、文化的、民族的結びつきを持ち、簡単にベンガル語のなまった言語を話すことができた。農民は地元のロヒンギャ語を話していたのである。このこと自体、19世紀のはじめにアラカンには大きなムスリムの集団があったこと、また彼らの言語が北インドの言語と異なっていることの証しである。

 1937年、ビルマがインドから離れて一つの行政区になったとき、英国は1872年以来の地域の人口変化を注視したレポートを作るよう依頼した。このジェームス・バクスターによるレポートは、インド人の移民によって地元のビルマ人の雇用機会が減じていないかどうかに焦点を当てていた。バクスターのレポートには、たとえば、1871年の人口調査をもう一度分類し直したことも含まれていた。アラカンのヒンドゥー(インド系)の住民はインド起源(英国統治下で仕事を探しに移動してきたということ)であると認定された。レポートはまた単純に宗教がおなじだからといって一緒にするのではなく、アラカンのさまざまなムスリムの共同体を区別しようとした。この観点からバクスターはつぎのように認識していた。

 

 アラカンのムスリム共同体はきわめて長くアキャブ地区に定住している。どう見ても彼らは先住民である。またアラカンにはわずかながらカマンと呼ばれるモハメダン(イスラム教徒)がいる。そしてモウルメンのあたりには小規模だが長く確立されているムスリム共同体がある。彼らはインド人ではない。

 

 私はわずかという言葉を強調している。なぜならそれが重要だからである。英国の人口調査からあきらかなのは、三つのムスリムのグループがあることである。つまりカマン、アキャブに暮らしているグループ(ロヒンギャ)、モウルメンの小さな共同体。バクスターは付け加える、「すべてのモハメダンがインド人と仮定するのは正確ではない」と。

 デレク・トンキンは、ロヒンギャは長く定住しているムスリムの共同体には含まれない、なぜならバクスターがアラカンのムスリムに言及するときロヒンギャという言葉を使っていないからだ、と主張する。彼はまた、1825年に英国がアラカンを征服し、行政機関を置いたときにはじまり、1948年の独立まで、いかなる段階においても、英国がこの共同体を表すのにロヒンギャという言葉を用いることはなかった、と付け加えている。たしかにバクスターはロヒンギャという言葉は使わなかった。しかし、すでに見てきたように、植民地時代の前も、あいだも、この名はさかんに使われていた。論じられるように、英国の人口調査は帝国のためにおこなわれたのである。実際的に、植民地時代のほとんどにおいて、英国は臣民の一面しか興味を持たなかった。すなわち忠誠心を持っているか、持っていないかだけだった。ビルマの場合、民族よりも宗教のほうが重要だった。

 トンキンはまた、ロヒンギャのアイデンティティという概念自体が、ポスト1948年(ビルマ独立後)の民族政治学が作り出したものと主張している。彼が言うには、「ロヒンギャという言葉は1948年の独立後、とくにアラカンを悩ますジハード主義者の登場を受けて使われるようになった。1961年までに北アラカンはマユ最前線地区に指定され、軍事管理下に置かれた」。さらに彼は言う、「ビルマ政府はときどきこの言葉を用いた。しかし1962年のクーデターのあと使われなくなった」。ジハーディスト(イスラム聖戦主義者)ということばは、1947年の短期間の反乱を表すのにビルマ人仏教徒がよく用いている。そしてそれはアルカイーダ・タイプのテロリズムと同義語と考えられている。1948年以降、マユ地方が軍の管理下に置かれたのはたしかだが、独立後におなじように軍の管理下に置かれたのはここだけではなかった。1964年にマユ地方はふたたびラカインの一部となった。それゆえ国の一般的な地域として扱われることになった。最終的に、すでに見たように、1962年に軍事政権がはじまると、徐々にだが、ロヒンギャに対する抑圧が激しさを増していった。

 さほどアカデミックでない作家たちは、ムスリムの人口増加は純粋に英国の政策がもたらしたという論議と、ワッハーブ派のイデオロギーを広げるために(ロヒンギャが)作られたという主張を混ぜ合わせた。

 

 ベンガル人移民の大半はアラビアのワッハーブ派のイデオロギーを広めるベンガルのファライ・ディ運動の影響を受けている。ワッハーブ派は水源近くの農業共同体にイフワーン(同胞)として定住することを提唱している。教えに従い、農民たちは、土地を耕すだけでなく、神の呼びかけに応じていつでも聖戦に参加する準備を整えていなければならない。

 

 議論になっているのは、たいへんな数のムスリムがベンガルからアラカンへ移動しているのだが、この二つの地域が大英帝国に支配されているとき、サウジのワッハーブ派の命を受けるということがあるかどうかだった。

 トンキンの記事「ロヒンギャは政治的なラベル、民族のラベルではない」には、話されている方言の場所についての細かい主張が書かれている。彼の結論はこうだ。「唯一の論理的な結論は、ロヒンギャという言葉が歴史上、民族を表す言葉としては使われたことがなかったということだ」。彼はまたこう述べる。「第二次大戦のあとラカイン州北部の居住するムスリムの大半を定義するために作られた」。それゆえ「ミャンマー政府がロヒンギャを民族として受け入れようとしなかったとしても驚くべきことではない。彼らロヒンギャのほとんどが伝統や先祖をベンガル人に求めることができるのだ」。

 ロヒンギャの概念は最近作られたものという考え方は、現在の政府が好むものだ。ジャック・ライダーはこの考え方を主張するもうひとりの人物である。彼はロヒンギャについて広範囲にわたることを書いた。彼の論文はトンキンが提起したのとおなじ論点を示していた。彼もまたロヒンギャという名称が最近できたものと主張した。単純に、その名はベンガルのムスリム・グループが慎重に採用したものというのである。彼は「アラカンのムスリム共同体の存在を疑う人はいない」と述べる。しかしロヒンギャはアラカンに住んでいた植民地以前(すなわち1824年以前)の共同体の子孫ではないと彼は言い切る。彼はこのようにしてロヒンギャがミャンマーにおいて最大のムスリム共同体であること、またラカインに居住区が集中していることを無視している。もし1824年以前の共同体の子孫でないとするなら、彼らは誰なのか? アラカンを征服したばかりの英国人によって実施された1826年の人口調査には、ロヒンギャという民族が出てこないと彼は強調する。しかしすでに見たように、英国人は民族ではなく、宗教を基本に分類する傾向があった。

 これに関連してライダーやほかの著者たちは、西暦1300年(ふたたび中央ビルマから独立した状態になった)以降、アラカンに存在したさまざまな王国はムスリムではなく仏教徒であったこと、1824年まで民族的にビルマ族であったと主張した。例としてライダーは、1794年まで西海岸に存在した王国は仏教王国であったと述べている。近世(15世紀から18世紀)のアラカンの歴史は仏教王国の歴史であった。この国は隣接するベンガル王国から兵士や貿易商人、奴隷にするためにムスリムを引き抜いてきたと想定している。ライダーは、この地域で、隣り合って暮らすムスリム共同体や仏教共同体を含む相互の関連性を提示する。しかしこの調和が取れた状態は、英国がベンガルからの移民を許してしまったために崩れてしまったと述べる。ライダーにとって現在の危機的状況はロヒンギャが歴史的な権利のないよそ者であるとミャンマーの多くの仏教徒が信じていることから生じているのである。しかしロヒンギャは抜け目なく、国際的な意見を操作しているという。このように多くの仏教徒の見方が969運動(仏教過激派の運動)の物語を反映しているとしても驚くべきことではない。

 この種の主張のよりはっきりしたことを述べた親仏教のウェブサイト、レポート、記事、本はたくさんある。これらの内容から仏教徒のミャンマーにとって何が脅威となるかあきらかである。そしてそれらはロヒンギャという概念は最近になって作られたものだと主張する。たとえばザンとチャンが著した『ウイルス流入』という本はつぎのように主張している。

 

 いわゆるロヒンギャに関する新しいトレンドがある。ビルマ独立後のイスラム過激派によって作られたトレンドは問題が多い。それは(A)アラカン人、(B)ビルマの人々、(C)歴史家と学者にとっては大いなる関心事である。急を要する発展競争の問題に広く取り組むには、不法ムスリム移民の流入の重要性や本質を適切に理解しなければならない。ロヒンギャの動向はとくにアラカン州にとっては、危険や挑戦をともなってきた。[オリジナルのテクストの文法的エラーやスペル・ミスはそのまま] 

 

 『ウイルス流入』の残りは、現代のミャンマーに敵対的な人々から出されたうその主張への長々とつづく批判で占められている。それは1785年以前のラカインの王国の仏教徒やビルマ人の特徴を論じている。さらにはライダー以上に1824年以前のアラカンにおけるムスリムの存在を小さく見ている。

 しかし1871年の人口調査は、「ラカインの64000人のムッスルマン(イスラム教徒)はアラカン人とは異なっている。しかし宗教や宗教が導く社会習慣を除けばほとんど変わらない」と記している。植民地主義者の傲慢な冷淡さはひとまず置いて、実際のところ、ロヒンギャとラカイン人はとてもよく似ている。実際、長い間ともに暮らしてきたのである。

 


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