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 戦闘を継続している人々とラングーンの統治者との間の対立関係と緊張のパターンもまた確立された。この関係は軍が公式に権力を握ったあともつづいた。これはいわば軍閥主義をもたらした。軍閥の司令官は、自分の領域の独立を主張した。彼らはしっかりと中央集権のシステムを保っているとして、名目上戦っていたのである。

 戦争はそのあともつづいた。将校クラスは経済をコントロールすることで富を得ることができた。すなわちアヘンを売りさばいたのである。兵卒たちはもらえるものが減らされたので、自分たちの食べ物は自分で育てた。そして彼らを守っているという名目で文民から盗みを働いた。

 仏教の役割についての論争もまた独立によって方が付くというわけではなかった。1948年から1962年にかけての民主主義的な時期に、仏教は一般生活の道徳の基礎として見られていた。しかしそれが「ビルマ人であること」の本質的な部分であることという感覚はなかった。1970年代と1980年代、軍は組織的仏教を国家宗教に選択した。国の建設に着手するとき、国民の大多数に、単一民族としてのアイデンティティが欠如しているなかで、「真のビルマ人」であることの本質的な基準を、よりいっそう仏教に求めるようになった。

 軍事政権の初期の頃、仏教は「ビルマ人の社会主義への道」のイデオロギーと比べれば重要ではなかった。しかしそれにもかかわらず軍にとって正当性の根拠としてそれは重要だった。のちに英国占領下で荒廃していたいくつかの大僧院は修復され、僧侶らをサポートするため助成金が付与された。仏教の聖職者たちを支えることによって、将軍たちは、テーラワーダ仏教が正しい支配者に期待するものを彼らが成就していると主張した。

 軍事政権の確立が、北方、東方、南部の国境地帯の山岳民族に向けた一連の軍事作戦に終わりをもたらすということはなかった。この状況から徐々に、本質的な人権侵害と大きな難民問題が生まれてくるのである。典型的な例が、カレン族が陥った苦境である。1990年までに3万1千人以上の人々がタイの難民キャンプに収容され、全面的に外国からの援助に頼らざるをえない状況に置かれている。そしてほかの多くの人々はビルマ国内のどこかに移り住んでいる。

 彼らのおかれた状況は、表向きはヘロインの生産と輸出を制限しようとビルマ政府とタイ政府が軍事協力をすることによってさらに悪化している。実際はと言えば、事実上両国から独立している地域を中央から管理しようという狙いがあったのである。あきらかに軍事政権も、武装した敵対グループも、紛争のための資金はドラッグの精製と輸出から得ていた。同様に、軍もさまざまな山岳民族も、子供兵士を定期的に活用した。

 1948年以来、戦争における、ミャンマーを傷つけてきたすべての国内の争いは、この点に関しては罪深いといえる。こうしたことすべては、国全体がその存在の潜在的脅威になりえるという軍の考えに加わるのである。今日に至るまで、この状況はつづいてきた。見かけ上の民主主義的な社会制度に対し、適切にふるう権力を放棄できない原則的な理由として、軍は内部において暴力を行使してきたのである。

 1974年、ビルマの憲法は軍の支配を揺るぎないものにするために、想定上は文民のビルマ社会主義計画党を通してだが、公式に一党独裁国家の憲法に変更された。つづいて軍のリーダーシップはそれが支配する国から分離していった。比較的大事にされ、富のほとんどを捉え、次第に社会の残りを秩序の脅威と見るようになった。この段階によって軍の支配はビルマを代表し、保つというよりも、経済的パワーを持つことだった。長くに渡って長所をコントロールし、外国の投資が軍のリーダーシップを豊かにするものであることを確信した。

 しかし、利権の分配や軍事支配の維持の仕方に関する党派的な論争は、頻繁に起こっていた。1988年に民主主義運動が進歩し、ネ・ウィン政権を倒す決定がなされたこと、そして2010年以降、第一党が新しい民主主義の一部であるように見える必要があったとき、タン・シュウェが解任されたことに関し、軍上層部内に論争があったことは、いくらか説明が可能かもしれない。両者とも、さらなる抑圧か、あるいは変化を喜んで受け入れるか、権力を得る最善の方法についての戦術的論争から出てきたもの認識されるべきである。実際のところ将軍たちが民主主義と深く関与するとか、弱体化した権力の基盤(そして経済的富の源)を見る準備ができているとは思わない。

 

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