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ビルマの社会主義への道と絶え間ない戦争のもたらす緊張は、つまり経済は破滅的ということである。支配階級を除くすべてのビルマ人は軍事独裁に苦しんできた。そして強制労働やその他の人権侵害の例が数えきれないほどよく記録されてきた。
1987年、民衆の怒りは爆発した。この年ネ・ウィンは不吉なナンバーという理由でほとんどの紙幣を無効にする決定を下したのである。流通するのは45チャットと90チャット紙幣だけとなった。(ネ・ウィンは9で割り切れる数字だけがラッキーナンバーだと信じた)これによって人々の限られた貯蓄は一夜にして消えてしまった。それでなくとも国民は進行する経済危機に苦しんでいたのに。
上述のように、軍事独裁政治が行われている間、仏教は複雑な役割を持っていた。1970年代、80年代、仏教は統治者のイデオロギーの一部として国に取り入れられ、軍は寺院や僧侶に資金を投入することで大衆の支持を得ようとした。一方で仏教僧は1988年の騒乱できわめて重要な役割を担った。
僧侶と学生たちはともに抗議活動をした。「学生たちは<戦う孔雀>のシンボルを見せびらかし、僧侶たちは施し物を受ける鉢(はつ)をひっくり返し、軍から施し物を受け取っていないことを示した」(BBC『ビルマの1988年の抗議』2007より) 軍が抗議する人々に向かって発砲し、暴動を鎮圧する一方で、ミャンマーの同時代の政治のために、親民主主義派と仏教僧の間の簡易な同盟は維持され、双方に関与した。
しかしながら、一部の軍のリーダーは、最初の抑圧の波は激しすぎると、そして暴力につぐ暴力は、軍の正当性の確立に対して脅威であると感じていた。結果としてネ・ウィン将軍は権力からはずされた。彼の後継者、ソー・マウン将軍は引き継ぎ、まず弾圧をつづけ、結果としてこう主張した。「国は深淵から戻ってきた。そして法に従って善良な人々のために国を救った」。
しかしながら彼はまた、民主主義に戻ることを約束して、緊張を緩和する方法を探した。ソー・マウンは独立後に軍に参加し、ミャンマーを統治した軍のリーダーの最長老だった。この一連の転換期において、見かけは、軍事政権から文民政府に名目上変わったかのようだった。しかし現実的には中身が変わることはなかった。それぞれの段階において本当のゴールは、ビルマの富と軍の特権を管理下に置くことだった。
そうであるにしても、1988年のできごとは相当にインパクトがあり、国の政治構造は変わらざるをえなかった。第一に、政権の概念上の社会主義は、1989年にミャンマー連合国という名前を採用したことで、なくなってしまった。第二に、支配者層は1990年の比較的自由な選挙を支持せざるをえなかった。
1988年の民主化運動は、新しい政治的なムーブメントをもたらした。すなわち国家民主連盟(NLD)の誕生である。これは1988年の暴動のあと作られたものだが、その組織のスタイルと政治的アプローチは、ビルマ史を見れば、確立された、伝統的なものであることがわかる。1920年代以降、英国人、日本人両者に反対する、
政治への重要なアプローチといえるのは、非合法の反対勢力を大衆の動向と混ぜ合わせることだった(それは当然少数派の行動を意味する)。1920年代、30年代においては、これは武力闘争を意味した。しかしNLDは非暴力抵抗運動以外のことは考えなかった。しかしエリートによる政治モデルと大衆の参加を同時に可能にするのは、NLDにとって依然として理論的に重要だった。大衆の抵抗という理念は、軍に対する頻繁な街頭抗議という意味で重要だった。それはNLDのリーダーたちに与えられた大衆運動だった。
NLDは、1962年以前の軍の中の分裂した解釈から、とくに社会における軍の役割についての一部の考え方を引き継いでいた。軍の一部と利益を共有したことは、准将アウン・ジーを議長に、元将軍トゥラ・ティン・ウー、アウンサン・スーチーを副議長に指名したことに反映していた。
アウン・ジーは彼自身の政党を作ったあと二か月でこの地位を辞職した。その際NLDは実質共産党だと主張した。そしてあらたに議長に就いたのはアウンサン・スーチーだった。ティン・ウーはNLDに残り、関りつづけた。彼はある程度ビルマのエリート層の中にいて、NLDのリーダーを代表していた。しかしクーデターが失敗し、妻が賄賂を受け取ったとして訴えられると、1976年、軍の最高司令官の地位を辞職した。
実質的に、NLDはビルマ社会の三つの異なる母体が連携したものとして登場していた。それは軍部、とりわけ1962年以降、さまざまな党派争いのなかで勢力を失くしていた人々とつながっていた。アウンサン・スーチーのなかに、アウンサン将軍や世俗的な、文民統治のビルマを願っていた人々とのつながりが体現されていた。
最終的に選挙において、学生や僧侶、その他軍部と戦ってきたビルマ人の支持を得ることができた。しかしビルマ族共同体以外には、民衆へのアピールも限られたものだった。このことから特殊なタイプの組織となったのである。
一方で、それは微妙に異なる二つの母体のビルマ人エリートを代表するエリート党であり、もう一方で、偶然によって大衆党になっていた。これから見ていくように、エリート指導層と大衆とのつながりを深めていけばいくほど、NLDは仏教僧に依存することになっていく。そしてこのことによってかえって、多数派ビルマ人以外へのNLDのアピールは相当に厳しく限られたものになっていく。