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 1990年の選挙キャンペーン中、多くの野党がNLDを支持した。しかし同時にエスニック・グループは自分たちの地域の政党を組織した。ラカインではアラカン民主同盟(ALD)が地元の政党のひとつとして登場した。しかし彼らはラカイン人仏教徒以外会員として受け入れようとしなかった。故意にロヒンギャを排除したのである。そしてアラカン北部における民族としてのラカイン人の確定を求めた。

 この政党のあとを継いだのが、2012年の大量虐殺を推し進めたラカイン国民発展党(
RNDP)だった。このようにパッチワークのように点在する諸民族のなかで、また政治的な動向のなかで、ユニークな立ち位置にあるロヒンギャは、選挙において、いかなる代表をも送り出すことができなくなった(しかも市民権法によって、投票権をも否定された)。

 この排斥にもかかわらず、特記すべき点は、1990年の選挙においてロヒンギャ民族は彼ら自身の政党を組織することが、そしていくつかの議席を獲得することが許されたことだった。何人かのロヒンギャが1990年の選挙に立候補するのを許す決定は、自分たちの市民権法の解釈の結果であり、1982年に発行された身分証カードを持っているなら、投票することも、立候補することも許された。

 将軍たちも負けずに、さらなる統治を合法化するための政治的な受け皿として、国民統一党(NUP)を立ち上げた。投票結果は与党が崩壊していることを示した。アウンサン・スーチーの野党NLDが議席の八割を獲得し、勝利したのである。

 

<1990年選挙の結果> 

政党               獲得議席(合計485)   議席の割合(%) 

国民民主主義同盟(NLD)     392           80・8 

シャン国民民主主義同盟(SNLD)  23           4・7 

アラカン民主主義同盟(ALD)    11           2・3 

国民統一党(NUP)         10           2・1 

他の党(23)および独立候補    49           10・1 

 

 合計して27の政党が議席を獲得した。これらの大多数は民族性を基本にした小さな政党で、それぞれの州で議席を確保しているとりわけALDはラカインの27議席のうち11の議席を勝ち取っている。しかし軍部は、国を支配するジュンタ(軍事政権)が憲法制定までの間、権力を維持すると宣言し、選挙結果に黙って従うことはなく、1990年7月27日の選挙結果を無効にした。選挙に参加したほとんどの政党は活動停止の処分を受けた。NLDは合法的に活動することが許されたが、いやがらせを受け、代表者たちが逮捕されることによって、力がそがれていった。

 NLDはそれに応じて、禁止された議会の代わりの活動をするために、CRPP(国民議会代表者委員会)を創設した。そして第一議長となるALDの指導者を選出した。実際、NLDによる最初の自発的な活動は、ロヒンギャ排除を呼びかけていた仏教系の政党と密接に連携することだった。その(仏教系政党の)リーダーは、ナッ川の西岸はラカイン人が「先祖から受け継いできた土地」という主張を強調したが、大戦中に強制的に立ち退かされたという。

 選挙に立候補したあるロヒンギャ活動家が著者に語った。たしかに断固として排除しようという特別な反ロヒンギャの動きがある。そしてそれはNLDと軍部との共謀という憂慮すべき流れがあることを示唆している、と。国会議員から正当に議席を取り上げるのに使える罪状は、たとえば偽身分証の使用である。有罪判決によって彼は四十年間刑務所で過ごすことになる。こうした弾圧は議席を得たロヒンギャ出身の人々にとくに向けられた。そしてロヒンギャのいかなる政治的代表権をも剥奪するために、NLDとラカインが手を結んで圧力をかけている。これを押し通し、さらにほかの政党が国会の議席を分かち合うよう推進するために、議会に立候補したロヒンギャの人々は偽身分証を使っていると主張したのである。

 政治的エリートたちのご都合主義のために、ロヒンギャに対する偏見がいかに増大し、あおられてきたかは重要である。1974年までに多くの問題と直面しながらも(軍事政権下ではすべての少数民族が直面するのだが)ロヒンギャは、なおも限定された「ビルマの社会主義への道」のもと、政治的プロセスにはある程度参加が許された。そしてビルマ社会主義計画党の一部のメンバーは、民族的にはロヒンギャだった。1990年でさえ彼らはある程度政治的な関りをもつことができた。しかし2010年の部分的な民主主義の復活までの時期、確実に除外されていったのである。そのとき以来、これから見ていくように、かなり激しくのけもの扱いされるようになる。

 1990年の選挙のあと、国の北部と東部の地域で弾圧が続いていた。おもに軍事政権と山岳民族の進行中の暴力から逃れた、およそ12万人の避難民がタイ・ビルマ国境の難民キャンプにいたという。さらには、UNHCR(国連高等難民事務所)の推計では、45万人の国内避難民がいたという。これは、国境地帯での暴力のレベルが、低水準の反乱より低いが、軍事政権が相手を敵とみなし、打ち負かそうとした全面的な戦争以上であったことを示している。民主主義に向かっていた2008年でさえ、公式には武力衝突は終わっていたにおかかわらず、山岳地帯における弾圧は続いていた。

 概して言えば、1992年まで、軍部は中央ビルマで政治的、社会的不安定に直面したが、政治的なコントロールを取り戻すことができた。しかしながら、すべてのビルマ国民が経済的な困難から抜け出せないでいると、弾圧も続くこととなった。2001年には、軍部内の論争が起き、国内クーデターが企てられた。軍事政権にとってより深刻なのは、進行中の経済問題だった。

 そしてジュンタ(政権)はつぎの困難に脅かされる。2007年、仏教僧たちに導かれた大衆の反乱の波が押し寄せてきたのである。今回は西側諸国に広く報道されてしまった。西欧とつながりのあるカリスマ・リーダー、アウンサン・スーチーとの組み合わせがあり、そしてテレビで報道されたことから、50年代後期以降のいかなるときよりも、ビルマ国内のできごとが、おおいに西欧の注意を引くことになったのである。実際のところ、1992年以降の軍部による弾圧は何も変わっていない。これから見ていくように、まったく予期されなかったことだが、軍事政権は大きな譲歩を迫られることになる。

 

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