ロヒンギャ:ミャンマーの知られざる虐殺の内幕 

2 独立から民主政権誕生まで(19482010) 

国際関係 

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 この時代、ビルマの国内政治に影響を与えた国際的要因というものがあった。上記のように、1950年代に特徴的だった国境紛争のひとつは、少なくとも、新しくできた中国共産主義政権を不安定化させるアメリカの試みと関連していた。同様に軍部は、侵攻という形にせよ、国内政治への外からの妨害にせよ、とくに外国の干渉を極度に恐がっていた。このあきらかなる孤立主義の志向にもかかわらず、外部世界がほとんどこの時期を通してビルマの諸問題に関心を抱かなかったにしろ、ビルマの国内政治への重要な国際的な影響が見られた。

 旧宗主国として、英国はもともとビルマが1948年の独立に際し、英連邦に参加するだろうと読んでいた。ところが新しく誕生した国家はかつての植民地の統治者に疑いを持ち、招待に断わりを入れたのである。インドやパキスタンが1947年に独立したあと、英印、英パ関係という壮大な難問を突き付けられた英国は、新しい国家に影響を及ぼすという当初の目論見を放棄した。英国はもともと、新しい政府の求めに応じ、財政を安定化させるために、援助を与えていた。そしてほかと同じように、新しい国には通貨としてポンドを使い続けることを許していた。もっと重要なことは、英国人は、東南アジアを通して反共産党ブロックを敷くために、かつての植民地やオーストラリア、ニュージーランドと連邦を作ろうとしていた。

 しかしながら新しいビルマ政府は、英国人がほかの手段を用いて植民地支配をつづけようとしているとみなした。そしてより大きな連邦を求めたカレン族を支援したことによって、英国人は信用を失っていた。1949年半ばまでには、ビルマ・英国の関係は事実上終わり、英国人高官がカレン族に権限を与えるクーデターを企てていたことが発覚した。英国人はウー・ヌの正式な政権よりも、反共産主義という面においては、カレン族のほうが信頼できると考えたのだ。

 1950年代、ビルマが外部との組織的なつながりがある限り、のちに非同盟運動となる組織の原形のような国際機関ともうまくやっていけた(公的機関として立ち上げるために、それはインドと密接な協力関係にあった)。ビルマはまた国連加盟国であり、(ソ連とアメリカの間の)中立的な立場に立つのは、ウー・タン(ウタント)が1961年に国連事務総長に選ばれたからだった。ビルマは1979年まで非同盟運動のメンバーであり、人権侵害で何度も批判されながら、国連の一員でありつづけた。

 1962年以降、軍事政権は、公式に自分たちは社会主義者であると主張したが、ソ連とも、中華人民共和国とも、のちのベトナムやカンボジアの社会主義政権とも(武器売却以上の)接触がほとんどなく、中国とソビエトが対立するなかでは中立を守ろうとした。実際のところ、木材伐採会社や採鉱会社の関心を除くと(彼らは軍事政権の奇矯さに順応するのは簡単と考えた)、ビルマに起こっていることに対し、国際的関心が薄いことはほぼ常識となっていた。

 軍部は、ミャンマーが発展するためには独特の困難さがある、そしてそれを得るために外の世界に必要とするものはないと信じるようになった。しかしながら、実際、軍事政権は信じられているほどには孤立主義者ではなかった。彼らは国際関係へのとても現実的なアプローチを取っていた。それは同盟というほどではないが、求めているものを得て、統制下の各州から採取した産品を売るという実際的な交換ができる関係である。彼らの対外政策は、いかなる外的圧力も違法であり、押しつけがましいとみなす思考法に左右されていた。しかしおなじように、諸軍事政権は、ミャンマーの富を理解するために(たとえ彼ら自身が富み栄えるだけだったとしても)彼らはある程度の国際的な反応を必要としているということを知っていた。しかしながら、人権に関する国際的な圧力に関しては極力無視しようとした。

 地域レベルでは、1950年以降の時期、近隣の強国、マレーシア、タイ、東パキスタン(バングラデシュ)との関係はむつかしいものがあった。ビルマ政府とさまざまな民族のコミュニティとの国境論争から緊張が高まることが多かったのである。そしてこれらの民族は近隣の諸国とつながっていることが多かった。ASEANのような地域グループにビルマが参加することで、部分的には地域の緊張が緩和され、現実的な協力関係を築くことができた。

 

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