ロヒンギャ:ミャンマーの知られざる虐殺の内幕
2 独立から民主政権誕生まで(1948―2010)
選択のターゲット
ロヒンギャに対する法律上の差別のすべてのパターンに、あきらかな人種差別的側面があった。しかしながら、ロヒンギャに対する弾圧と差別が、独立時のビルマにおいてとくに目立っていたわけではなかった。というよりも、非ビルマ族のエスニック・グループすべてに対して、政府は不信感を抱いていた。そしてそのとき以来、状況は悪くなる一方だった。1950年代から1960年代にかけて、ロヒンギャは差別に直面する多くのエスニック・グループのひとつにすぎなかった。それは人種パッチワークの一部分として受け入れられていたということだった。
1970年代、直接的な弾圧に変わっていった理由のひとつは、「ビルマの社会主義への道」が経済的災難であることがはっきりしてきたことである。軍事政権は、生贄とすべきわかりやすいグループを必要としていた。壮大な差別を作り出そうとしていた。ロヒンギャはこの役目にぴったりだった。武装していない彼らは民族的に識別しやすく、ビルマ語でない言語を話していた。しかも90パーセントが仏教徒のこの国でイスラム教徒だった。
究極的に軍事政権は、ビルマの少数民族に市民権を与えないように、基本として市民権を得るためには仏教徒であること、という考え方を採用した。これは時間をかけて、局所から推し進められていった。というのも、大半がキリスト教徒のチン族のようなグループがいくつかあったが、彼らがそう簡単に仏教徒に改宗するはずもなかったからである。
1960年代前半、軍事政権は仏教を合法なものとし、限定的にだが、このやりかたを適用していった。しかし経済が悪化するにしたがい、「内なる敵」を見つけることがより重要になっていった。
1990年代になると、ロヒンギャは外国人とみなされたため、さらなる禁止条項が課せられた。それにはふたり以上の子供を持たないこと、強制的な産児制限、結婚の禁止などが含まれていた。これらの禁止条項の結果、官憲が人々の家に押し入り、誰が住んでいるかをチェックすることも可能だった。さらに、ロヒンギャは通常の旅行が禁じられていた。ラカイン州内での町の往来さえもが、許可がなければできなかった。地域を離れ、ビルマ国内のどこかへ行く許可証が出ることはめったになかった。
この合法化と差別が単純に軍事支配と独裁主義の時代の歴史的遺物であるなら、民主主義のプロセスが働き、状況はおのずとよくなると希望することもできそうである。しかしながら民主主義に向かっていくとき、ロヒンギャの法的地位はますます悪化していくのだった。そして極端にエスカレートしていく暴力に彼らは直面することになる。