ロヒンギャ:ミャンマーの知られざる虐殺の内幕 

3 民主主義への回帰(20082015) 


サイクロン・ナルギス 

 1988年の民主化運動後の抑圧は何も解決しなかった。野党は生き延び、NLDと仏教僧の組織はゆっくりと同盟関係を結んでいった。同時に多くのビルマ人の生活は厳しくなっていった。2007年9月、広範囲にわたってサフロン革命として知られる抗議活動が起こった。これらは激烈なものだった。

 2007年の社会不安は、またも経済的失政が引き金となっていた。僧侶たちは、ふたたび托鉢の鉢をさかさまにするというシンボル的なジェスチャーによって、政権への拒絶を示した。それに対し、軍部は多くの仏教寺院を攻撃し、閉鎖した。反乱はうまく抑圧することができた。しかしサフロン革命はNLDと僧侶たちの関係をより強固なものにしたのである。政権は仏教徒上層部からの支援を求めたが、合法性を失い、かえって孤立し、弱体化した。さらには寺院は、貧困化した人々のために教育と食べ物を分配していった。僧侶たちには大衆における新しい地位を与え、軍上層部以上の強い影響力を持つようになった。

 本格的な政治変化が少なくともはっきりと見えるようになったのは、2008年のサイクロン・ナルギスの影響が大きかった。サイクロンはビルマの気候の典型であり、ときには春のモンスーン期(通常三月から五月)にこの地域を直撃した。ビルマの地形によってナルギスは尋常でなく強烈なサイクロンに発展した。そのようなサイクロンのほとんどはベンガル湾を北の方向に横切ってバングラデシュへ向かった。そして沿岸の丘陵やアラカン山脈を襲って力を失った。

 今回、嵐はイラワジ(エーヤワディー)・デルタを直撃し、沿岸の湿地帯に捕らわれるまで、二日間力を失わなかった。サイクロンはビルマの稲田の65パーセント、デルタ地帯の建物の95パーセントに破壊をもたらした。さらに、イラワジ(エーヤワディー)川の洪水は沿岸から50キロの地点にまで及び、広範囲にわたって損害が出た。経済的な混乱は深刻であり、13万8千人の命が失われたと推計されている。

 予想されたように軍事政権はふるまった。まず彼らは援助の申し出を断った。援助受け入れに合意したのは、サイクロン直撃から一週間後の5月9日だった。まずASEAN加入国だけが許された。国連からの圧力があって、5月23日までに軍事政権は、ほかの国際援助組織の援助に同意した。上述のように、この決定を強いるのに、政権が国民にとっての「脅威」になっていると主張するフランスへの軍部の反発があった。そうであっても、なお援助を受け入れるのに乗り気でなかった軍事政権は、なおも米を輸出し、それで武器を買い、外貨を得ていた。同様に、政権は援助物資を管理し、忠実な支持者とされる人々に分配しようとした。

 ミャンマーの軍事政権は、言い訳をたくさん並べるだけだった。国軍は長い間、国内で国民を弾圧するばかりで、国民を助けることに慣れていなかった。一方、イラワジ(エーヤワディー)・デルタはカレン民族集団の故郷でもあった。彼らは1960年代以来、ビルマ人の支配に反旗を翻し、戦ってきた。こうして敵愾心を持つ人が増えるばかりだった。国軍がもともと持っている国民を敵ととらえる気質のようなものが、さらに強固になっていった。大型サイクロンのほとんどはバングラデシュを襲うので、さほど大きくないナルギスに対し、ミャンマー政府はこれといった対策を取らなかった。しかしナルギスは、この何世代かで最悪の被害をもたらすサイクロンとなった。

 人々が助けを必要としているときに軍隊が不在なのは、2007年の騒乱の暴力的な弾圧のときの彼らの圧倒的な存在と対照的だった。ラングーン(ヤンゴン)の民間人は問い始めた。「いつも僧侶や民間人を叩く制服を着た連中はどこへ行ったのだ? 彼らは全員やってきて、地域をきれいにするのに手を貸し、電力の復旧に尽力すべきだ」。全般的に、危機に際しての行動のミスによって、大衆の目から見た政権の合法性は失われていった。そして軍部に2010年総選挙を行うよう圧力がかかった。

 

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