ロヒンギャ:ミャンマーの知られざる虐殺の内幕
3 民主主義への回帰(2008―2015)
NLDの役割
2010年総選挙をボイコットしたあと、NLDはアウンサン・スーチーへの選挙活動禁止が解かれたとき、方針を変えた。その結果、NLDは2012年のいくつかの小さな補欠選挙に参加し、候補者が立候補した地域のほとんどで議席を獲得した。少なくともビルマ人が多数派の地域でははっきり示されたのだが、NLDは圧倒的な支持を得て、政界への復帰が本格化することになった。
2011年以降、アウンサン・スーチーは、民主化への前進と少数民族の対処の仕方に関する政権への批判の鉾をおさめつつあった。ふたたび選挙政治に参加する決定をNLDが下したことは、政権に直接利益をもたらした。当時のオバマ大統領はそれを「前進のかすかな希望の光」と呼んで称賛した。同様に、ミャンマーははじめて2014年からのASEAN議長国となったと発表された。それは民主主義や人権に関する改善が見られたことへの報いと言えなくもなかった。
USDPに関する章で述べたように、結果としてUSDPとNLDの間に比較的いい関係の時期があった。2012年の補欠選のあと差し迫った選挙もなく、二つの政党は共存し、両者とも良好な関係から得るものがあった。NLDは大きな政党組織をつくるための法的な地位を確立することができた。政権は民主主義へ向かっていくことに対し、国際的な是認を得ることができた。もちろん、あとでまた触れるように、気持ちのいい共存の時代は、ラカインの暴力的紛争があった時期で、軍事政権のもとロヒンギャが保持していたわずかばかりの権利も組織的に破壊された時期でもあった。
しかし2015年総選挙に向かっての準備期間は、NLDとUSDPの比較的良好な関係のテスト期間でもあった。2015年総選挙に向かっていくなかで、NLDがミャンマーの政治システムを形成していくとき、それは軍部が国家を直接管理下に置いたような力が欠けていた。2010年にあきらかになった弱さをあわせもっていた。
2015年8月のNLDと結びついたUSDP委員長シュウェ・マンの失脚と関連したできごとは、二つの政党の間の政治的利害の交差するところがある程度あることを表していた。また将軍たちがミャンマーの富を管理下に置いていることを示していた。すでに論じたように、シュウェ・マンは2015年総選挙で大敗を喫すると予測されていたUSDPの党派の代表であり、NLDと折り合いをつけようとしていた。
USDPとの緊張が高まると、ある程度の直接的な抑圧が戻ってきた。たとえば、2014年9月、NLDと関係の深いジャーナリスト、パルジは警察の留置場に入れられているときに、狙撃された。そして中庭に埋められた。ミャンマー当局は彼が逃れようとしていたと主張している。彼の遺体が検視のために掘り出されたとき、体には虐待の痕がはっきりと残っていた。
このNLDとUSDPの関係の変化は重要である。解釈の一つは、将軍たちはクーデターを宣言し、国際的な信用を失うほうに賭ける準備をしていたという。同様に、彼らは選挙結果がどうであれ、(またも)憲法を改正して経済的力を得ようとするかもしれないという。どちらの場合にせよ、NLDがどんな反応を示すかはわからない。
これはつまり、NLDの戦略のなかにいくつかの鍵となる弱さがあり、それが依然として有効であることを示している。これにもかかわらず、2015年総選挙のNLDの勝利は大きく、権力を握ろうとする将軍たちの試みを押しとどめるのに十分な権力を与えた。しかしNLDが軍部から経済力をもぎとれるかどうか、疑問を残すことになった。
第一に、民族的にビルマ人の地域で、NLDは選挙戦において人気があるが、大衆政党というわけではない。それは人口の大半と結びつくために、(何か落ち着かないが)同盟を組んだ仏教僧に頼っている。
第二に、NLDはその大衆への認知のために、アウンサン・スーチーの人気に頼るところがあった。政治的運営のための基盤が比較的脆弱であるため、よく組織された仏教グループはNLDの実際的な政治に多大な影響を与えていた。とくに非ビルマ民族グループとの関係において。こうして現代のミャンマー政治の最終の綱を理解するために、我々は仏教信心グループのほうを見なければならない。それは2008年以降、きわめて重要になる。