ロヒンギャ:ミャンマーの知られざる虐殺の内幕  

3 民主主義への回帰(20082015) 


現代ミャンマーのオルタナティブな声 

 上述の内容から、現在、反ロヒンギャ人種差別主義がミャンマーの標準という印象を与えるかもしれない。たしかに絶望的なほど一般的になっている。しかしすべての社会とおなじく、多くの人が人種差別と憎悪に対し声を上げようとしているのも事実である。ミャンマーでも同様に、一部の勇敢な市民は、反イスラムの偏見に満ちた仏教に対し、声を上げている。

 パンザガー(花言葉の意)のようなネットワークは、勇気を持って過激主義者と対決してきた。とくに仏教にイスラム憎悪を加味した969運動を拒絶してきた。彼らパンザガーは、ヘイト・スピーチに対する行動を呼びかけてきた。969運動の僧侶たちと違って、スピーチ(言葉)とアクション(行動)の間につながりがあることを認めた。「人類の間のヘイト(憎悪)が増殖しないように、自分たちの言葉を見ていこう」が彼らの重要なスローガンの一つとなった。969運動に対するこうした言葉は徐々に現れたものである。たとえばもう一つの人気のあるスローガンはつぎのようなものである。「あなたの言葉でヘイトの火花を散らすな」。

 969運動は敵対者を「にせものの同胞」とか「国事の裏切り者」などと呼ぶが、そうした意見の相違は、いわば個人的な事情の帰結にすぎない。しかし結果として、一部の人は口を閉ざすように脅かされていると感じるとレポートしているのである。これは虐殺の危機にさらされているという懸念すべき兆候だった。

 約一年前、近所の友人が自分のバンにステッカーを貼った。それにはこう書いてあった。「私は人種問題や宗教問題の種を蒔かない」。しばらくして彼はステッカーをはがした。「このステッカーを見た連中が怒っておれに向かって暴力をふるおうとするのではないかと心配になったんだ」と彼は言った。「商売用のバンだからね」。いったい誰がこのステッカーに同意できないというのだろうか。このステッカーは、メイッティラの暴動につづく宗教的暴力行為の広がりに反対する若者たちによって組織されたキャンペーンのために作られたものだ。友人はバンを運転することによって自分の家族を支えている。 

 969運動に対抗する市民グループの例には、女性の権利に対して攻撃的だとして異教徒間の結婚を禁止した法に反対する女性のグループも含まれていた。この女性の権利はそもそも969の主張と矛盾していた。彼らはこの法は、女性をムスリムの暴力から守るのが目的だと主張していたのである。この場合、アウンサン・スーチーは実際に活動家と会ったが、969運動に対して立ち上がったこれらの人々は、死の脅迫にさらされ続けていた。

 声に出している人はほかにもいる。ジャーナリストでフィルムメーカーのモン・モン・ミャは、民主主義に向かっていくなかで、ミャンマーのすべての少数民族の共同体に敬意を払う必要があると主張した。同様に私はミャンマーで働いている数多くのジャーナリストと会った。彼らによれば、政府もいまや、過激主義者の僧侶たちは遠くへ行ってしまったように感じるという。しかしNLD のように、僧侶たちに直接問いただすような地位にいるわけではなかった。上述のように、政府は国際的な圧力に対して曖昧な見方をしていた。しかしEUと国連の制裁が解除され、活気のあるビジネスが再開され、金を稼ぐことができるよう願っていた。

 これが示すのは、969運動やマバタによって信仰される仏教の「ビジョン」は――もしミャンマーに仏教徒にふさわしい未来があるなら――根本的に、すべての非仏教グループが排除された偏執狂的ビジョンである。現在の情勢においても、宗教間の争いがないわけではない。もし争いがなくなっているなら、それは大きな成果である。しかし現状では、十分に収まっているとはいえないだろう。問題は、仏教が他の宗教と共存しているミャンマーという国を想像するにおいて、第一野党のNLDに、オルタナティブな見方が欠如していることである。これがミャンマーの現状でもっとも失望させられることなのである。しかし国際社会は、ロヒンギャの状況を改善するきっかけを発見するかもしれない。それはほかの被害者グループも同様である。

 仏教徒コミュニティ内部に、過激主義に対する意見の相違がある。969運動の法的能力の限界の実際的な例が、2013年、マンダレーのすぐ北のラシオで起きた。仏教徒支配者層の役割が迫害を許すか、鼓舞することであった一方、仏教徒コミュニティは積極的な役割を演じていた。

 コミュニティ間暴力発生の引き金になったのは、ムスリムの男が仏教徒の女性にガソリンをかけたあと、火を着けるという事件だった。暴力は連鎖反応を呼び、ムスリムが一名殺され、多くのムスリムの商店や家が焼かれた。それから逃れた地元のムスリムたちは地元の軍隊に助けられた。軍隊は彼らを仏教寺院に送り、そこで彼らは世話を受けた。僧侶たちはムスリムをさらなる身体的暴力から守った。同様に、ラカインで似たできごとがあったときと違い、軍隊と警察は冒頭の翌日、秩序を回復するために出動し、暴力行為を実行したとして、24人の地元民を逮捕した。

 狂気じみた孤立した行為から、なぜコミュニティ間の大動乱にまで発展したかといえば、969運動の煽りで、宗教間に不信が広がったからだった。それにもかかわらず、ラシオでのできごとは、現代ミャンマーがいかに多くの矛盾点を抱えているかを如実に物語っていた。多くの僧侶は宗教のなかに平和と寛容の精神を見いだした。

 これは969運動やマバタに対し、仏教界が賛同しなかった一例である。ほかにも、こういうことがあった。2014年、マンダレーの一部の僧侶が地元のムスリム共同体とともに緊張を緩和し、宗教間の関係を改善するよう働きかけた。メイッティラの一部の僧侶もまた、969運動支持者による攻撃を逃れたムスリムのための避難場所として彼らの寺院を提供した。重要なことは、ここに世代間の分断が見られること。1988年の動乱に参加した年長の僧侶は、若い僧侶と比べると、969運動に対して声を上げているようだ。たとえば1988年に収監された上級僧侶のシタグ・サヤドーは、暴力支持者を批判し、宗教間の平和をめざしてイニシアティブを取るよう声高に主張した。

 

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