(2)

 ミャンマーの公的な民主主義への移行はビルマの指導者層とアメリカの接触の機会を増やすことになった。ヒラリー・クリントンが2011年11月にミャンマーを訪問した。そして英国のデヴィッド・キャメロン首相がつぎにやってきた。こうしたことから英国やアメリカに圧力がかかり、EUや国連が科していた制裁は2012年に解除されることになった。その年トニー・ブレア(英国前首相)やジョゼ・マヌエル・バローゾ欧州委員会委員長、11月には当時のオバマ大統領が訪れた(偶然なのか、このときラカイン州の事件の独立調査が行われると発表された)。

 国際社会では大国が火花を散らし、熾烈な貿易戦争を繰り広げているとき、ロヒンギャの苦境は見落とされがちだった。2012年、ミャンマーを訪れたとき、ラカインの虐殺に言及した。とはいっても、オバマ大統領は民主主義移行に力を尽くしているとして、軍部や野党を称賛するばかりで、虐殺のことはほんの少しばかり触れただけだった。

 EUはミャンマーに関心を持つもうひとりの国際的な役者だった。1990年の弾圧以降、EUは制裁を科してきたが、2011年からは政権を鼓舞することしか効果のある戦術はなかった。これから見ていくように、2012年のラカインの民族暴動の責任を政権は免除されていた。そして武器の売買を除くすべての制裁を解除していた。そのとき以来、EUは最大の支援者であり、完全な民主主義への移行を手助けしていると信じていた。アメリカやインド、中国と比べ、EUはミャンマーでは脇役にすぎない。だが国際社会の反応の色合いを調整することはできた。徐々に、だが不可避の民主主義への移行はミャンマー国民全員に利益をもたらすだろうという確信がまちがっているかどうかは、論ずるだけの堅固な基礎があった。

 アメリカはあきらかに継続している北朝鮮の存在をこころよく思っていなかった。しかしこのことを無視して満足なように見えることは、ミャンマー政府は影響が及ぶことに強く抵抗を示しているということだった。

 

⇒ つぎ