ロヒンギャ:ミャンマーの知られざる虐殺の内幕
4 ロヒンギャ関連(2008―2015)
2008年憲法は、実際、ロヒンギャの市民権を拒絶した1982年憲法の強化版にすぎなかった。さらに、1988年以降、NLDは民族的な地域政党と連携を強めていた。1990年の総選挙の際にはこれらの政党は州北部からロヒンギャを排除するよう主張していた。地元のラカイン人は全国区の政党よりも、これら民族を支持基盤とする地域政党を応援していた。そして国内の他地域とまったく異なるローカル政治を作り出していた。大きなロヒンギャ・コミュニティが効率的に選挙プロセスから合法的にはじかれ、ラカイン過激主義者にとって新しい段階に入ったのである。
2013年、RNDP(ラカイン国民発展党)とアラカン民主主義連合の合併によって、ANP(アラカン国民党)が誕生した。2015年までにこの連合は、長老政治家たちの野望によって崩壊した。そしてRNDPはもう一度単独の政党に戻った(党員の大半はANPにとどまったけれど)。しかしながら、彼らが推し進めた活動の名目が何であるにせよ、これらの政治家たちは2012年の、さらにそれにつづくいくつかのロヒンギャ虐殺および弾圧に深く関わってしまったのである。
ラカインにおける政治と行政
地政学的に、ラカインは1826年の英国占領前のアラカンと同じ地域である。1942年に民族反乱が起きたときに、あらかじめ入り混じっていたロヒンギャとラカイン人は分離した。ロヒンギャの大半は現在北部の地域(マウンドー、ブーティダウン、ラテダウン)やシットウェ港周辺に居住し、州のほかの地域にはラカイン人が住んでいる。
ミャンマーのほかの地域と違って、地元の政党RNDPとANPがラカインの政治において多数を占めている。軍部の存在感を示すUSDP(連邦団結発展党)も有力ではあったが、確固とした大衆人気があるわけではなかった。もうひとつの相違は、民主主義への動きが国内の他地域と比べても不十分であったことである。軍部は文民行政の管理下に完全に残っていた。あるロヒンギャ活動家が私に手短に説明してくれた。「この町に民主主義なんてものはありません」。そして行政官は「軍事独裁時代の行政官であり、彼らは再指名されたのだった。(……)すべての人々が軍、軍の政党の行政官、町の行政官のもとにあった。これのどこに民主主義があるというのか。
ラカイン州内では、多くの仏教寺院がRNDPやANPと連携していた。過激主義仏教徒は、ミャンマーのほかの地域と違って、政治的プロセスにより深く関わることができた。慈善団体が、仏教寺院の協力を得て、口唇裂を持つ地元の子供たちに手術をおこなったとき、ロヒンギャの子供たちも治療を施そうとしたが、拒絶されてしまった。
2008年から2012年にかけての時期もロヒンギャ弾圧は継続していた。そしてアメリカ政府報告は、これがとくに宗教的側面があると記していた。この時期、適切な許可を得ず建てられたとして、多くのモスクが破壊された。そして州内のいくつかの場所に「ノー・ムスリム地域」が作られた。さらに仏教のパゴダが、しばしば強制労働のロヒンギャによって、仏教徒のいない地域に建てられた。そして仏教に転向することに同意した人々には、旅行、仕事、登校への制限を解除するとして、転向を勧めるキャンペーンをおこなった。実際、改宗する準備を整えたロヒンギャは、市民として他の国民とおなじ権利を得ることができた。
家族レベルの制限や旅行の制限を含む初期の差別政策が継続することによって、ロヒンギャをミャンマーから排除するというRNDPの決定に影響をもたらした。もっとも寛容な解釈をしたとしても、NLDも軍部も、この政策に異を唱えることはできなかった。実際のところ、RNDPにラカイン州内での議論の色合いを許すという意味では、彼ら(NLDと軍部)は共謀関係にあった。政治的な道具としての民族間の緊張の継続的利用は、2012年に頂点に達した。
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