ロヒンギャ:ミャンマーの知られざる虐殺の内幕
4 ロヒンギャ関連(2008―2015)
2012年の虐殺
(1)
2012年のできごとは、ロヒンギャを国から、あるいは少なくとも故郷から国内の難民キャンプへ駆逐しようとした、民族浄化(エスニック・クレンジング)の試みとして描くことができる。暴動は2012年6月に4つの町で始まり、10月にはさらに9つの町に広がった。最初は乱雑な暴力だったが、そのうちロヒンギャを国から追い出すための組織的な試みに変わっていった。
5月下旬、ラカイン人の女性が3人のムスリムの男にレイプされ、殺されたあと、一連のできごとは6月に始まった。6月3日、ラカイン人仏教徒の大きな集団が一台のバスを止め、乗車していた10人のムスリムを殺した。これにつづいて暴力はエスカレートし、多数の村が攻撃を受け、両方の共同体から犠牲者と攻撃者が出た。武装した群衆が殺害や放火を実行した。
最初、地元の治安部隊、とくに警察は(ラカイン人仏教徒が大半)片側に立っていただけだが、のちに何人かの役人が攻撃に参加し、ムスリムの村々を焼き払った。対照的に、 軍部が暴力をやめさせようとしたり、逃げるムスリムを守ろうとしたりした例はごくわずかだった。むしろ傍観することのほうが多く、そうでなければ積極的に攻撃に参加した。六月事件が徐々に収まっていった頃、軍部はロヒンギャの遺体を難民キャンプの近くに投げ捨てた。
どの遺体も身元確認されなかった。地元の住人が撮った写真から、何人かの犠牲者は処刑される前にひもや縄で手足を縛られていた。追放されたロヒンギャのためのキャンプ近くに遺体を遺棄することによって、兵士たちは民族浄化政策を維持しているというメッセージを送ったのである。すなわちロヒンギャは永遠にこの地を去らねばならない、というわけである。
暴動に軍部と警察が関わっているのはあきらかなのに関わらず、EUもアメリカも、暴力を封じているとして、政権の公平なアプローチを称賛した。EU外務委員長のキャサリン・アシュトンは心を動かされ、主張した。「治安部隊がこの困難なコミュニティ間の暴力に適切に対処していると信じています。ミャンマー政府が優先課題として民族紛争の解決に取り組んでいることを歓迎します」
実際、6月の暴力事件のあと、被害を受けた人々を助けることを、あるいは治安部隊が関わっていたという申し立てについて調べることを、国は拒絶している。それどころか、テイン・セイン大統領はふたたびロヒンギャを、他国に移送すべき不法非市民と呼んでいる。この声明はミャンマー社会からの彼らの完全追放を呼びかけることになった。それ以来追放要求は繰り返されることとなり、過激主義者のレトリックの柱となっている。これから述べていくが、ロヒンギャをミャンマーから追い出したいという欲求は、2015年の難民危機の要因のひとつとなった。ラカイン人共同体のリーダーたちは、ロヒンギャ駆逐という目標を分かち合った。ロヒンギャを弾圧するためにロヒンギャを非難する、というパターンは、ミャンマー当局のいつものやりかたとなった。
6月末までには、自然発生的な暴力の最初の波も収まっていった。その間に、セイン・テイン大統領は六月事件を調査し、「異なる宗教グループが、調和をもって暮らしていく共同体のための解決法を探る」委員会を設立した。8月末、発言の中で彼は、「政党、一部の僧侶、何人かの個人は民族的憎悪を煽っている」と述べ、ラカイン人は6月の暴動に責任があると示唆した。しかしながら2013年7月の委員会の最終的なレポートの中で、ミャンマーの善良の民に危害を加えたとして、国際社会とともにロヒンギャを非難した。そして暴力行為において州が共謀していることについて何も述べなかった。