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 不幸なことに、六月事件は10月の怒涛のごとく発生する暴行事件の前哨戦にすぎないことがわかってきた。最初の一連の暴行事件のあと、仏教僧たちは(民族的)ラカイン人はロヒンギャとの経済的つながりを断つべきだ、彼らの商品やそれに関連したものを売らないように命じるべきだ、といったことが書かれたパンフレットを配布した。

 パンフレットは「アラカン人を絶滅させようとたくらんでいる」と主張した。つづけて、「ロヒンギャはわれわれの土地を盗み、われわれの水を飲み、われわれ人民を殺している。彼らはわれわれの米を食べ、われわれの家の近くに住んでいる。だからわれわれは絶縁することになるだろう。われわれはムスリムとこれ以上かかわりを持つことはないだろう」。

 このキャンペーンはまたたく間に広がり、ロヒンギャは経済的、社会的に孤立させられた。同時に、「ロヒンギャはラカイン人に対するはかりしれない脅威である」とパンフレットは主張した。実際、ふたつの要求があった。ひとつは、「ロヒンギャは家に(つまりバングラデシュに)帰れ」、もうひとつは、もし彼らがとどまるなら、「ラカイン州の中で隔離されるべきだ」である。ある僧侶が
BBCに語っている。「世界中に多くのイスラム教の国があります。彼ら(ロヒンギャ)はそこへ行くべきなのです。イスラム教の国々は彼らの世話をしてくれるでしょう。彼らはおなじ宗教の国へ行くべきです」

 僧侶たちは、RNDPと連携して、地元の政党やコミュニティ・グループと協力しながら、エ・マウンをリーダーとする組織を作り始めた。RNDPは、近隣諸国に移る前に、ロヒンギャに「一時的に」離れてもらい、そうすることでラカイン人の近くに住まないようにさせた、いわばロヒンギャ排除の原動力である。RNDPはロヒンギャと交渉をつづけたラカイン人コミュニティのメンバーをさえ攻撃した。そしてロヒンギャはアルカイーダと組み、多数派の仏教徒を大量殺害する計画を持っているなどとして、恐怖を煽り立てた。

 これらの主張に、さらには噂話が補填された。つまりモスクの中に武器弾薬が隠されているというのだ。政権は彼らをあまりにも恐れ、地元のコミュニティを守ることができないという。こうした主張はラカイン人の間で広く知られるようになった。そして国の統制下にあるラジオから広がった。

 ビルマではソーシャルメディアが重要になってきた。大多数の人にとって、それが主要な情報のソースとなった。ソーシャルメディアのレポートとして多くのストーリーが始まった。そしてついで紙の媒体でも報告された。このようにオンライン上でも憎悪は掻き立てられた。そしてメディアで繰り返し報道された。許しがたいメッセージが上層部から、すなわちセイン・テインのスタッフから発せられていた。彼はフェイスブックの自分のページにつぎの一文を記している。

 ロヒンギャ団結機構と呼ばれるロヒンギャ・テロリストは、武器を持って国境を越え、わが国に侵入してくるのです。ほかの国々からロヒンギャがやってくるのです。われわれの軍部は先にそのことを知り、徹底的に彼らを根絶しようとしています。すでにそれを実行していると信じています。われわれは人道上の問題や人権について、他者から意見を聞きたいとは思っていません。ほかにも、正義についてどうのこうのと言われたくないし、聖人ぶって何かを教えようとするのにも耐え切れません。

 投稿メッセージは削除されたかもしれないが、オリジナルのスクリーンショットは保存されている。つぎに来るメッセージも、期待するような聖人や宗教の教派の反応ではなかった。十月暴行事件の引き金となったのは、三人の仏教徒がムスリムによって殺され、ふたりのビルマ人兵士が銃火によって負傷させられたことだったと広く信じられている。しかし暴行事件は、過激主義者の僧侶やRNDPのような政党の念入りの行動や計画がもたらしたものだった。彼らはロヒンギャとラカイン人のコミュニティの結びつきをすべて断ち切るために尽力した。

 ラカインにおいて急増する暴行事件は、ミャンマー当局のもとで直接的に起こるのではなく、いわば局所力学的に発生したと信じられている。これは四十年間憎悪を煽り立て、何もしてこなかった政権が無実であるという意味ではなく、過激主義ラカイン人の行動を抑制してきたのである。

 一連の暴行事件は10月22日に始まり、一週間つづいた。多くの攻撃は地元のコミュニティ・モスクを燃やすことから始まり、それから人家を燃やし、ロヒンギャの住民が逃げるように仕向けた。目撃者によれば、最初の攻撃をおこなったのは識別できる地元の人間ではなく、外部からやってきた人々だったという。

 10月23日、ムラウー、ミンビャ、チャウピュ、パウトー地区の村々で協調して攻撃がおこなわれた。今回は、民族にかかわらず、攻撃対象はすべてムスリムだった。そしてチャウピュ沿岸地区のカマン人(彼らは市民権を持っていた)も攻撃を受けたのである。つづく暴行はかならずしも一方的ではなかった。場所によっては、ロヒンギャやカマン人が自分たちの共同体を防衛する際に、仏教徒ラカイン人から死者が出たのである。


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