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 最悪の事件は10月23日、ヤン・テイ村で起きた。朝6時30分、虐殺がはじまった。攻撃はあきらかに準備されたものだった。それは前日の事件にひきつづいて起こったもので、地元の警察(ロン・テイン)は、地元のロヒンギャから棒やその他武器になりそうなものを取り上げていた。ある生き残った者の証言によれば、警察は役割を持っていた。

 私たちは、何千人ものアラカン人が近づいてきたとき、村の外に出ました。そのときロン・テインはこちらに村の中に戻るように言い、私たちの手から棒を奪ったのです。はじめ(ロン・テイン)治安部隊はこう言いました。「何もするな。我々がおまえたちを守るからな。救ってやるからな」と。だから私たちは彼らを信じたのです。しかし彼らは約束を破りました。アラカン人たちは私たちを殴り、いとも簡単に殺したのです。治安部隊は彼らの手から私たちを守りはしませんでした。 

 ほかの生存者は、地元の警察は実際、攻撃に参加していた、そして村人に銃を放った、と証言した。これに関する独立した証拠はないが、すべての目撃者が、村人はアラカン人の暴動から守られると約束されたが、結局運命に身を任せるしかなかったと主張している。午後5時頃、ほとんどの暴行が終わっていたにもかかわらず、軍部は最終的に仲裁をしようとした。死者の中には28人の子供たちが含まれていたが、そのうち13人は5歳以下だった。彼らはみな切り殺されていた。

 ほかの場所でも暴力行為に治安部隊が絡んでいるのは間違いなかった。いくつかのレポートによると、10月23日、チャウピュで三人の若いムスリムを射殺したのは軍部だった。しかし6月のときのように、軍部の役割は首尾一貫しているわけではなかった。軍部が暴力を避けようとし、できるだけ早く終わらせようとした地域もあった。

 また別のレポートによれば、ミャンマーの海軍の船が、ボートで逃げた人々や、ラカインの安全な地域だと思って移動する人々に、食べ物や水を供給した。しかし難民が大きな難民キャンプがあるシットウェの近くに到着したとき、「軍隊がやってきて、私たちを海の方へ押し戻そうとするのです。なんとか岸壁に近づこうとするのですが、彼らは私たちの上陸をはばみました」。彼らは最終的に上陸が許可されたが、ビーチに留め置かれ、援助は拒否され、軍の兵士に殴られた。

 ほかの場所では軍隊のおもな貢献は、ロヒンギャが暴行に巻き込まれないように逃がすことだった。あるカマン・ムスリムは報告する。「私の魚屋の前に5人かそれ以上の兵士が現れました。村全体が燃えていました。兵士たちを見たとき、彼らは助けてくれるのではないかと思いました。しかし彼らはこちらに向かって『とっとと失せやがれ!』と叫んだのです」。軍隊が片方の側に立つというパターンはどこでも繰り返された。

 警察と軍隊はやってくると、人々に家から出るようにと命じた。そしてもし言われたとおりにしなかったら、みな殺されることになると言った。彼らはまた、治安の保障はできないと言った。そして軍隊と警察がいるなかで、アラカン人たちが私たちの家に入ってくると、ほしいものすべてを奪っていった。 

 治安部隊による暴力は、異集団間の攻撃が収まったあとも続いた。彼らは助けを求めている人々を攻撃し、残虐なやりかたでこれらの人々を追放した。大統領ははじめ、治安部隊が暴力行為に関連したことを否定した。しかし暴力行為があまりにもひどかったため、かえって国際社会の注目を浴びることになってしまった。11月中旬までに大統領は国連事務総長パン・キムンに書簡を送った。そのなかで彼は、異集団間の紛争が発生していることを認め、ロヒンギャの再定住強制の問題に取り組み、彼らに市民権を与えることを誓約せざるをえなかった。

 この約束のタイミングは偶然ではなかった。オバマ大統領のミャンマー訪問の寸前であり、このVIP訪問の前にいかなる問題も除去しておく必要があった。しかしこの約束に誠実さのかけらもないことが、2014年4月の国連安保理に提出された国連特別報告者のレポートからわかった。「人権問題の状況に関し、何の改善も見られていない。それどころか、そこで発生している拡大した差別や人権侵害に取り組む州レベル、国家レベルの明確な行動がないまま、時間ばかりが過ぎている。すでにひどいありさまなのに、状況はさらに悪化しつづけている」。

 約束したにもかかわらず、軍隊や警察の暴力行為への関与疑惑に関して、ミャンマー当局は何の努力もしなかった。国連はつぎのように記す。

 このあたりで発生している人権侵害を明らかにする信頼のおける調査はいまだに実施されていない。暴力問題にかかわっているとして政府は両方のコミュニティの人々を訴追している。しかし州当局者はそれに含まれておらず、独立した、あるいは信頼のおける調査がないなかで、主犯たちが訴追されるかどうかははっきりしないままである。 

 国連は、組織的な暴力に責任がある人々が調査を推し進められないことに、懸念を表明してきた。

 よりよい世界のために違いを作り出せる野党NLDの声がある。しかし予期されたように、彼らはぼんやり立っているだけで、ロヒンギャは国を出ていくべきだという過激主義者の要求には黙って従うだけだった。暴力の結果避けられない結果は難民の急増だった。仏教徒過激主義者たちは、苦境にあるロヒンギャを非難する方法を見つけた。ウィラトゥ師は、難民キャンプへの逃走を、ムスリムたちが「自分たちの家を故意に壊し、支援団体が経営する難民キャンプによい場所を得ようとしている」と主張した。

 この結果、暴力と弾圧から逃げようとする大量のロヒンギャ移住者が生まれることになった。十万人を超える人々が国内の難民キャンプに到達する一方で、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)は2012年10月から2013年4月の間に、1万3千人がマレーシアに、6千人がタイに逃れたと見積もった。2015年に明らかになったのは、数百人が海上で死に、近隣諸国に到着した人々の大半が、即座に闇の移民労働市場に消えたことだった。


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