ロヒンギャ:ミャンマーの知られざる虐殺の内幕
4 ロヒンギャ関連(2008―2015)
2013、14年の虐殺
2012年の攻撃のあと、直接的な暴力紛争の頻度は下がっていた。しかしそれは暴力紛争が終わったということではなかった。マウンドーのドゥチラダン(キラ・ドン)村のような離れた地域では、ときおり暴力行為が突発的に起こった、4千人ものロヒンギャが殺され、レイプされ、逮捕され、未公表の場所へ連行された。彼らの所有物は根こそぎ持っていかれ、放火されて彼らの家は焼尽してしまった。
一連のできごとは、自分たちの犯罪を隠そうとした、地元の役人による殺害が起きたあとに始まった。彼らは犯罪の目撃者やレイプされた女たちを逮捕しようとしていた。こうしたことは村人たちを煽り立てることになり、ロヒンギャの村人と警察の間の暴力紛争へとつながっていった。そしてそれは、軍隊が実弾を使った一斉射撃を群衆に向かって浴びせ、蹴散らしたとき、はじめて収束したのである。ジャーナリストやNGO関係者はマウンドーに入るのを拒まれた。国連関係者だけがアドバイザーとして入域が許された。
暴力の恐怖がラカインから消えることはなかった。そして2013年と2015年の間、突発的に暴力紛争が発生した。ミャンマー国内のほかの場所に住む非ロヒンギャ・ムスリムが襲われたのである。2013年3月、マンダレー近くのメイッティラで仏教僧たちが襲ったという。およそ1万2千人移動させられた。この暴力行為に先んじて、フェイスブックに、地元のムスリムはジハードの準備が万端整っている、という旨の一文が記された。
彼ら(ムスリム)はラマダンを装ってマンダレーのモスクに集まってきた。しかし実際は我々に対するジハードのために兵をあつめ、準備をしているのである。ミャンマー政府はこれらイスラム過激主義者と交渉し、すべての容疑者のモスクや家を攻撃しなければならない。すべてのビルマ人は準備をしっかりして、ムスリムの罠に落ちないようにしなければならない。
衝撃的だったのは、ここに書かれている内容が、2012年10月の暴動以前、ラカインに広まっていた噂話とよく似ていたことである。
その間、ミャンマー政府は、ロヒンギャが慎重に、うまい具合に、国際世論を操作しているという確信を持つようになった。そのため彼らはロヒンギャと外の世界を結ぶコミュニケーションを遮断しようとした。幸い、ソーシャルメディアと同情的な国際世論のおかげで、政府の思うようにはいかなかった。しかし、国から援助組織を締め出す揺るぎないやり方があった。もっとも有名な例では、2014年の暴力紛争のあと、ロヒンギャ共同体への援助を妨げるために、国境なき医師団(MSF)にラカインから出ていくよう命じたことだ。実際、国境なき医師団は、最低限のサポートをすることさえ禁じられてしまった。
援助活動はとくに、政府から妨害を受けることになった。それはバングラデシュ国境に近い入域禁止地区のマウンドーで起こった虐殺に対して、国際的な批判を浴びたからだった。国連と人権団体によれば、一月、子供を含む少なくとも40人のロヒンギャ・ムスリムが、ラカイン人仏教徒やビルマ人治安部隊によって殺された。
ミャンマー政府は、ロヒンギャがこうむってきた災難についてのいかなる批判も、国に対する攻撃とみなすようになった。そしてロヒンギャが外に向かって話そうとすると、政府は彼らとNGOとの接触を必死に阻んだ。これによって、この地域で何が起こっているのか、情報がきわめて出にくくなってしまった。ロヒンギャ共同体への援助も、徐々に減っていくことになった。数多くの支援団体が、この地域のほかの活動をつづけるため、政府が定めた禁止事項を守らざるを得なくなってしまった。