ロヒンギャ:ミャンマーの知られざる虐殺の内幕
4 ロヒンギャ関連(2008―2015)
こうしたことはなぜ起きたのか
ロヒンギャがおもな、特別なターゲットだった2012年から2013年にかけて、ミャンマー国内のほかのムスリム共同体に対する暴力も広がっていた。こうしたできごとを引き起こす推進力となっているのは、過激民族主義仏教僧と旧軍事政権、公的な反対勢力の沈黙の間に協調関係ができあがったからである。
実際、複合文化の、複合信条主義の国家はビルマ人の文化に支配される仏教国家として扱われる。ビルマ人の文化に含まれるのは、いくつかのエスニック・グループだけであり、その他は明確に排除される。このようなビルマの国家アイデンティティは、自動的にロヒンギャのようなグループを国の外に追いやり、通常なら国家が市民に与える保護の法的権利を彼らから奪うことになる。これはさらなる暴力の重要な前提条件となり、攻撃的な過激主義仏教徒の心の中では、彼らの行動のさらなる正当化となる。国家のこの考え方では、ミャンマー国内にロヒンギャの居場所がないのはあきらかだった。そして当然のことながら、州内の居住区にも居場所はなかった。
政府が好んだ解決法は、ラカイン州の仏教徒コミュニティとムスリム・コミュニティを分けることだった。そうすればグループ間の軋轢が減ると期待したのだ。この極端な決定によってラカイン州内に半永久的な難民キャンプを作り出すことになってしまった。これらはロヒンギャの村と町がいくつか存在したエリアに点在した。しかしほとんどはシットウェの北方の沿岸部に集中していた。
町に残って暮らしている人々にとって、状況は悪くなる一方だった。国連の人権特別報告者はつぎのように述べている。
彼(報告者)はシットウェの近隣で唯一ムスリムが残っているアウン・ミンガラルを訪ねた。彼はここをゲットーと呼んでいた。アウン・ミンガラルの収容棟のなかで彼は居住者から、八月の訪問のときと比べて1600人ほど人口が減ったと聞いた。多くの人がリスクを冒してボートに乗り、近隣諸国をめざした。危険な船旅を生き抜いても、行きついた国でさらなる人権侵害と彼らは直面することになった。それには人身売買も含まれていた。
ビルマ人社会からのロヒンギャの分離は、仏教徒の疑惑に火を着けるだけだった。分離とはしばしばそういうものだった。伝統的に、ミャンマーのイスラム・コミュニティは厳密なメンバーを超えて開放的で、活動的だった。たとえばラングーンではムスリム無料病院を経営していた。しかし分離されるにしたがい、彼らはいっそうミャンマーのほかの人々にとって「外国人」になっていくのだった。
結局、ロヒンギャと接する機会が減れば減るほど、ロヒンギャはジハードを準備しているとか、そのようなナンセンスな国粋主義者の主張を信じるようになってしまうのである。ロヒンギャの誰とも話す機会がなかったら……彼が陰謀を企んでいないと誰が言えるだろうか。逆に、ロヒンギャは隣人のラカイン人の信頼をなくすようなことをたくさんやってしまったのである。不幸にも、ひとたび不信の輪が確立されると、それはさらに増幅されることになるのだ。こうしたことの結果は、今まで見たとおりだ。むしろ状況は悪化の一途をたどっていた。
ラカインにいるロヒンギャにとって、難民キャンプに収容されるのは、健康も教育も保つことができず、刑務所に入れられるようなものだった。多くのラカイン人政治家は、もしロヒンギャをミャンマーから駆逐することができなかったとしても、2012年と2013年に逃亡した彼らにとって難民収容所が永遠の住み家となるよう力を尽くしたのである。またそれだけでなく、なおも村で暮らしているロヒンギャを難民収容所へ送り込もうとしていた。そしてもっとも不安定な仕事を生活の糧とするのさえロヒンギャは拒まれた。つまり彼らと取引をするラカイン人コミュニティのいかなる者をも、過激主義者たちが脅すことで、問題はいっそうこじれてしまった。
つねにそうであるように、貧困は女性たちを直撃した。MSF(国境なき医師団)が国から追放されて以降、悪化する状況下で、健康管理がなく、いかなる家族計画もないまま妊婦になる傾向があった。多くの子供たちが幼い年齢で亡くなっていくなか、ロヒンギャ共同体の高い出生率は、「仏教徒のミャンマー」に対する脅威の証拠であると執拗に引用したのは、過激主義者のあやまちでもあった。実際のロヒンギャの出生率は論ずべき点ではあるが。こうして、より穏健な仏教徒でさえ、ムスリムが仏教徒より速く「繁殖」し、「仏教徒のミャンマー」の本来の姿を薄めてしまうのではないかと恐れるようになった。