ロヒンギャ:ミャンマーの知られざる虐殺の内幕 

4 ロヒンギャ関連(20082015


2015年の難民危機 


 ラカインの明白な暴力行為のレベルは2013年以降落ちたとしても、迫害と排除は弱まることがなかった。ロヒンギャはラカインの都市部から追い出され、ミャンマー政権が国内難民収容所を恒久化しようとしていることは間違いなかった。2014年センサス(人口調査)は政府に利用されたが、それには目的があった。「当局は、登録することを拒んだ人々、また適切な証明書を持たない人々の数に必要なだけの難民収容所を建てるだろう。そして彼らを収容所に隔離し、恣意的に、無期限に拘留するだろう」。

 2014年センサスは、2015年総選挙の行動に大きなインパクトを与えた。さしあたり、ミャンマー当局は、ベンガル人であることを認めないロヒンギャがセンサスを完了することを単純に拒んだ。このことは所持していた自己証明カードの剥奪につながった。そして適切な自己証明の欠如は、ロヒンギャを難民キャンプに追いやる言い訳として使われた。

 ロヒンギャの生が組織的に悲惨な状態に追いこまれることによって、大量の人が海から近隣諸国へ逃げようとする大規模な難民危機を招くことになった。この人の流出は組織的な迫害の定期的な反応だった。そして近年はモンスーン期の春には定期的にみられる現象だった。

 2015年5月、この定期的なできごとはすぐに国際メディアの注意を惹いた。おそらく普段から観察していた人の目から見ると、難民危機のもっとも混乱した側面は、2015年の初夏、危機が最終的に私たちの注目の的になったとき、ミャンマーの国内状況で、明らかな、切迫した引き金がなかったことだろう。2015年難民危機は特別な政策決定が直接的にもたらしたものではなく、いくつかの勃発した暴力事件から起きたものでもなかった。単純に、人が耐えられない状況の中で生きていかねばならないとき、そういったことは起きるのである。

 多くのロヒンギャは、ミャンマーには彼らの場所がないことを受け入れているように思われる。なぜ彼らが受け入れるか、例を挙げるよう。迫害と排除が常態化し、とくに彼らが警察と軍隊によって殴られても、ラカインの病院が彼らの治療を拒否するようになったのである。センチネル・プロジェクト(Sentinel Project for Genocide Prevention)のスティーブン・カーソンズ氏はつぎのようにまとめている。「将来の希望の完全な喪失があった。人々は、ビルマにいようが、外国に出ようが、命を賭けていた」。そのうえ、国を去るロヒンギャの全員が自らの意思で去るわけではなかった。

 6人のグループがあった。彼らはバングラデシュのラカイン人仏教徒で、みなナイフと銃を持っていた。彼らは私をボートに乗るよう強制した。彼らは私にミャンマーから出ていけと言った。彼らは私を小さなボートに押し込んだが、私は水に落ち、肩まで水に浸かった。ほかに15人のロヒンギャがボートに乗っていた。全員が強制されてボートに乗っていた。 

 レポートはほかにもたくさんあった。お金を払って逃げる人々もたくさんいた。彼らの多くは、ロヒンギャ追放という政治的目標の一環として、難民ボートに乗ることを強制されたのである。こうしたことから無教養な元オーストラリア首相トニー・アボットは、ボートピープルを「無鉄砲」と呼んだ。難民としてオーストラリアがロヒンギャを受け入れるかどうか聞かれた彼は答えた。「まさか、まさか」。幸いなことに、世界中のリーダーたちが冷淡なわけではなかった。ローマ教皇フランシスコはロヒンギャ迫害のことを「一種の戦争」と呼んでいる。

 我々の兄弟、ロヒンギャのことを考えてみよう。彼らはある国から、そしてつぎの国から、そしてまたつぎの国から追われている。彼らは港かビーチに着き、少しの水と少しの食べ物を与えられたあと、海に追い返されている。これは解決されない紛争であり、言ってみれば、戦争であり、暴力であり、殺人である。 




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